東天の獅子 第三巻 天の巻・嘉納流柔術 夢枕 獏 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)稽古衣《けいこぎ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)山下|義韶《よしかず》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)ただのもの[#「もの」に傍点] ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/03_000.jpg)入る] 東天の獅子——とうてんのしし—— 第三巻 天の巻・嘉納流柔術 夢枕 獏 双葉社  目次  十一章 警視庁武術試合  十二章 三巴戦  十三章 柔術無限  十四章 唐手 [#改ページ]  ●登場人物紹介● 嘉納治五郎 講道館創設者。学習院大学教頭 横山作次郎 講道館四天王の一人 西郷(保科)四郎 講道館四天王の一人 山下義韶 講道館四天王の一人 富田常次郎 講道館四天王の一人 宗像逸郎 講道館 有馬純臣 講道館 武田惣角 大東流。のち、自流を興す 西郷頼母近悳(保科近悳) 元会津藩家老。西郷四郎の養父。御式内の伝承者 勝海舟(安芳) 幕末、明治の政治家。嘉納家と縁がある 三島通庸 第五代警視総監 奥田松五郎 起倒流。警視庁柔術世話係 久富鉄太郎 関口流。警視庁柔術世話係 市川大八 天神真楊流道場主 中村半助 良移心頭流。久留米の人。警視庁柔術世話係 仲段蔵 関口新々流。久留米の人。警視庁柔術世話係 佐村正明 竹内三統流。熊本の人 戸塚彦介英俊(一心斎) 千葉の揚心流戸塚派道場主 戸塚彦九郎英美 一心斎の息子。道場を継ぐ 西村定中 揚心流戸塚派。大竹の義兄 大竹森吉 揚心流戸塚派 照島太郎 揚心流戸塚派 野地円太郎 揚心流戸塚派 金谷元良 揚心流戸塚派。警視庁柔術世話係 中田仙二郎 揚心流戸塚派 梟 謎の男。講道館門下生を襲う 新垣世璋 沖縄の那覇手師範 [#改ページ] 東天の獅子 第三巻  ◎天の巻・嘉納流柔術◎  十一章 警視庁武術試合 (一)  夜——  道場の中央に、ぽつんと男が独りで座している。  稽古衣《けいこぎ》を着ている。  ランプの灯りが、ひとつだけ点っているが、道場全体を明るくするほどではない。  座して、眼を閉じている。  しかし、その瞼《まぶた》の下で、時おり眼球が動いているのがわかる。  眼は閉じているものの、心の中が激しく動いているのがそれで見てとれる。 「かっ」  と、男は重い息を吐き出し、眼を開いた。  その眼が、らんらんと獣の如くに光っている。  宗像逸郎《むなかたいつろう》であった。  歯の鳴る音が響いた。  よほど強い力で歯を噛んでいるらしい。  宗像は立ち上がった。 「うりゃあっ」  声をあげて、頭から前へ跳び、背を丸めて転げ、畳を掌で叩く。  だん、  という激しい音が響く。  そのまま、仰向けになって天井を睨む。  起きあがる。 「かあっ」  叫んで、後方に倒れ、両手で畳を叩く。  起きあがる。  さっきから、宗像は、同じような動作を繰り返していた。  これまで、ずっと、講道館に泊まり込みで稽古を続けてきた。  いよいよ、明日は試合であった。  警視庁武術試合——  宗像は、良移心頭流の中村半助と闘うことになっている。  中村は警視庁の柔術世話係の役職にあった。  中村半助と闘って勝つことができるのか!?  それを考えると、眼が冴えざえとして、眠れない。  闇の中で、意識だけが刃物のように尖ってくる。  それで、宗像は寝床を抜け出し、稽古衣に着がえて、火照る身体と意識を鎮めようとしているのである。  しかし、意識はかえって鮮明となり、血の温度までがあがってきてしまう。 「かああっ」  溜め息も、吐き出せば炎のように口からふきこぼれてくる。 「かあああっ」  宗像が声をあげたその時—— 「どうした、宗像……」  宗像の背後から、声が響いてきた。  宗像が振り返ると、そこに、入口を塞ぐようにして、大きな肉の塊りが立っていた。 「眠れんのか」  横山作次郎であった。  横山は、ゆっくり歩いてくると、宗像の前で立ち止まった。 「はい」  宗像がうなずく。 「どれだけ稽古をしても、まだしたりないような気がして——」 「ふふん……」 「何か、まだ、やり残したことがあるのではないかと——」 「そういうことか」 「起こしてしまって申しわけありません」  宗像は言った。  横山も、明日の試合には出場することになっている。  相手は揚心流戸塚道場の照島太郎である。 「こわいか」  横山は、宗像に訊いた。 「こ、こわくはありません」  宗像は、言下に言った。 「自分は、明日の試合で生命を落としてもかまいません。死ぬのはこわくありません。ただ——」 「ただ?」 「もしも負けたら——負けたら、講道館と先生に恥をかかせてしまうことになります。それが——」 「こわいということか」 「———」  宗像をしばらく見つめていた横山は、 「いいじゃないか」  ふいにそう言った。 「あたりまえのことだ」 「あたりまえ?」 「安心しろ」  横山は言った。 「おまえだけじゃない」  横山の厚みのある拳《こぶし》が、宗像の肩を叩いた。 (二)  明治十九年、六月十一日——  弥生祭。  空は、晴れていた。  試合場は、野外である。  境内の相撲場の上に床を造り、さらにその上に直接畳が敷かれた。  三十二畳。  四隅には柱が、上には屋根がある。  その正方形の畳の上が、試合場となる。  その周囲に、桟敷席が設けられ、さらにその周囲の三方が白い天幕で囲われた。  天幕で囲われてない側に、社《やしろ》がある。  警視庁武術試合。  午前中に、柔術の奉納試合があり、午後に剣術の奉納試合が行なわれる。   第一試合 嘉納流山下|義韶《よしかず》対起倒流奥田松五郎。   第二試合 嘉納流宗像逸郎対良移心頭流中村半助。   第三試合 嘉納流横山作次郎対揚心流戸塚派照島太郎。   第四試合 嘉納流|保科《ほしな》四郎対揚心流戸塚派好地円太郎。  図式としては、講道館の嘉納流対古流という組み合わせになっている。  今回の大祭を立ちあげた警視庁第五代警視総監|三島通庸《みしまみちつね》が望んだ組み合わせであった。もっとも、第三試合の横山対照島については、少しいきさつがある。  大祭のひと月ほど前—— 「三島総監はおるかね」  勝海舟が、ふらりと警視庁に姿を現わした。  勝が直接来たとあっては、会わずに帰すわけにはいかない。  応接間で、三島は勝と会った。 「何か急な御用でも?」  三島は言った。 「いや、用事じゃあねえ。茶飲み話をしにきたんだよ」 「茶飲み話?」 「一杯茶を飲んだら、すぐに帰《けえ》るさ」  すでに、ふたりの前のテーブルには、茶が出されている。 「今度の弥生祭だけどね、もう、決まったのかい——」  勝は言った。 「決まった、と申しますと?」 「武術試合のことだよ。誰と誰が闘うのか、もう決まったのかい?」 「胆《はら》づもりはあります」 「どんな胆づもりだえ?」 「講道館流を見てみたいのです」 「嘉納流だね」 「不思議な人物ですね」 「誰がだい」 「嘉納師範ですよ」 「どんな風に?」 「帝大を出て、柔術をやっておられる」 「帝大を出て、柔術をやっちゃあおかしいかい?」 「おかしくはありません。ただ、そういう人物は、これまでおりません。嘉納君がただ独り——」 「確かに」 「わたしも会ったことがありますが、谷さんや、大鳥さんからも、評判は聴いております」  元学習院院長の谷干城《たにたてき》、大鳥圭介のことである。 「どんな?」 「人物として、非常に筋目が真っ直ぐであると——」 「ほう」 「講道館の他に、嘉納塾という私塾をやっておりますが、どちらも門下生や塾生から月謝をとっておりません。自分が働いて、その金で彼らを教えている」 「らしいですな」 「ですから、試してみたいのです」 「講道館を?」 「嘉納治五郎という人物を」 「なるほど」 「嘉納治五郎師範の姉に勝子さんという方がおられるそうですが——」 「うむ」 「その勝の字、噂では勝先生のお名前からとったものだとか——」 「噂じゃねえ。本当のことだよ」 「それで、嘉納君のことを気にかけておられるのですな」 「でな、ひとつ、あんたに頼みがあるんだよ——」 「まさか、嘉納流を——」  そこまで言って、三島は言いよどみ、言葉を切った。 「勝たせろなんて、言うつもりはねえよ」 「では、どういう?」 「講道館の横山作次郎と、戸塚派の照島太郎、このふたりをやらせてもらいてえのさ」 「また、何故?」 「おいらが見てえんだよ」  勝は言った。 「それが、茶飲み話ということですか」 「そういうこった」 「横山については、考えていたことがあったのですが……」 「何をだい?」 「いえ。ともかく、勝先生のお声がかりですからね。このこと、心に留めておきましょう」  ということが、しばらく前にあったのである。  試合は、午前九時に、始められた。 (三)  試合場には、柔術諸流派の道場主や、重鎮の顔が並んだ。  戸田流。  直信流。  為我流。  楊心流。  竹内三統流。  関口流。  気楽流。  天神真楊流。  双水執流。  神道北窓流。  起倒流。  井上敬太郎。  戸張瀧三郎。  佐村正明。  仲段蔵。  上原庄吾。  戸塚英美。  大竹森吉。  西村定中。  金谷元良。  市川大八。  飯久保恒年。  警視庁の武術|世話係《せわがかり》を務めている人間の顔もあった。  錚々《そうそう》たる顔ぶれといっていい。  千葉を拠点とする揚心流の戸塚派の道場生が出場していることから、船越千葉県知事の顔もあった。  さらに、三島通庸を中心にして、警視庁のお歴々の顔ぶれがある。  政治家の顔が幾つか並ぶ中に混じって、勝海舟の顔もあった。  見とどけ人——つまり、審判は関口流|久富鉄太郎《くとみてつたろう》。  一試合目は、講道館嘉納流山下義韶対起倒流奥田松五郎。  すでに、ふたりは、試合場の袖に控えている。  名前を呼ばれた。  ふたりは、試合場に向かって一礼をし、畳の上にあがったところで、社殿に向かってまた一礼をした。 「前へ」  久富鉄太郎が言うと、山下と奥田は、ゆっくりと試合場の中央へ向かって足を進め、そこで止まって向かいあった。  距離、およそ一間半——  畳の広さ三十二畳。  山下は、上下が白の稽古衣を着ていた。  奥田は、上が白、下には黒い袴を穿いていた。奥田の額には、白い鉢巻が巻かれていた。  山下と奥田は、互いに相手に向かって一礼をした。  山下が、身長五尺三寸五分。  奥田が、身長五尺七寸二分。  奥田の方が、ひとまわりほどは大きいであろうか。  明治のこの頃の感覚からすれば、大兵《だいひょう》と言っていい。  久富鉄太郎が前へ進んで足を止め、ふたりの間に持ち上げた右手を伸ばした。  久富鉄太郎は、腰を下ろし、裂帛の気合を込めて、 「始め!」  叫んだ。  山下と奥田の腰が、すっ、と落ちる。  互いの両手が、軽く前に出る。  山下は、まだ二〇代の初めだ。  奥田は、三〇歳をすでに幾つか越えている。  山下の顔が赤い。  まだ、指先すら触れあっていないのに、山下の肩が上下している。 「りゃ」 「りゃ」  ふたりの口から、声が出る。  山下が、先に動いた。  前に出た。  奥田が、合わせて前に出る。  すうっ、  すうっ、  とふたりの身体が近づく。  止まらなかった。  組んだ。 「むう」 「むう」  その瞬間、奥田の両足が、宙に向かって跳ねあげられていた。  山下が投げたのである。  奥田の身体が、肩から畳の上に落ちた。  見ている人間たちの間から、どよめきが起こった。 (四)  何が起こったのか!?  一瞬、奥田にはわからなかった。  山下の顔と、上下する肩の動きを見て、相手が極限まで緊張していることがわかった。  初めて戦場へ出た人間と同じだ。  勝てる——  そう思った。  ほんのわずかに刺激を与えてやれば、それだけで、この山下という男は動き出してしまうに違いない。あの緊張状態で動けば、普段の実力の半分も出せぬであろう。  今日のこの日に選ばれて、ここに立っているということは、講道館でもよほどの実力者なのであろう。  しかし、若い。  経験が少なすぎる。  そういう人間が、こういう時どういう精神状態になるか、奥田は理解している。  自分には、経験値がある。  生命のやりとりに近いことも体験している。  グラント将軍がアメリカからやってきた時には、その前で形もしている。  勝機は今だ。  前に出した左足の親指を鉤《かぎ》状に曲げ、畳を掻いた。  それに、体重をのせる。  前に出るというほどの動きではない動き。  山下を刺激する動きだ。  それに、山下が反応した。  たわみきった竹が、ぽん、と跳ねあがるように前に出てきた。  襟を取り、袖を取り、前に出てくるその勢いをそのまま利用して、畳の上に叩きつける——。  それが、できなかった。  自分が投げられていた。  それが、どういう風に投げられたかというのが、わからなかったのだ。  自分の両足が、宙に跳ねあげられ、頭から落とされた。  頭から畳に激突するのを避け、右肩から落ちた。  同時に、山下の右襟を左手で掴み、身体に右手を回わして身体を密着させた。  ふたり一緒に、畳の上に倒れ込むかたちになった。  ただ、投げられた自分が先に、畳に触れることになった——それだけのことだ。  奥田が下、山下が上になった。  まさか、今の投げで、久富が一本を山下に与えてしまうようなことはあるまい。  奥田はそう思った。  たとえ、畳の上でなく地面の上であっても、このくらいの投げでは勝負の結着はつくはずもない。  久富の声は響かない。  このまま、寝技のかたちで試合が続くことになる。  耳元で、ごうごうと嵐のように鳴っているものがあった。  山下の呼吸音だ。  息がめちゃくちゃだ。  まだ緊張が続いているのである。  むう——  奥田は、小さく呼吸をしながら、この若者に舌を巻いた。  恐るべし、講道館。  このような緊張状態で、技が出た——その意味を、奥田は瞬時に理解していた。  稽古だ。  毎日、毎日、気の遠くなるような日々と時間を、この男は稽古に捧げてきたのだろう。  息をするように、飯を食うのと同じように技が身体に染み込むまで、いや、骨に染み込むまでこの男は稽古をし続けたのであろう。  そうでなければ、あのような状態で技など出ないことを、奥田は知っていた。  だが、そういう稽古なら、かつて、自分もしてきた。  特に、今日の試合が決まってからのひと月余りは、久しぶりにそういう稽古をしてきた。  市川大八が、眼の前で、あの横山という男に、いいように翻弄されるのを見たからだ。  あのような男が、講道館にはいるのだ。  あのような男と、山下という男は日々稽古をしているのであろう。  弱いわけはない。  懸命に稽古をした。  どれほど、充実した日々であったことか。  その意味では、この山下という男に礼を言いたいくらいだ。  しかし、負けるわけにはいかない。  幾ら強かろうが、山下は、道場生である。  一流の看板を掲げて、自分はそれを背負っているのである。  負けの大きさが違う。  しかし、休まない男だ。  山下は、奥田の上になって動き続けている。  奥田は、今、それをしのいでいる状態であった。 (五)  思わず、動いてしまった。  動いた瞬間に、誘われたのだとわかった。  しかし、わかったからといって、もう止まれなかった。  前へ出るしかない。  どうするか、どうしたらいいのか。そういうものは、もう、念頭になかった。  真っ白になっていた。  ただ、前に出た。  そうしたら、組み、組んだ瞬間には、もう相手を投げていたのである。  奥田が、自分を、どうやって投げようとしているのか、それがわかったのである。  それがわかったから、投げることができたのだ。  さからわない。  相手の動きのままに、力を流し、体をさばいて、足をはらい、投げる。  ほとんど力を入れたような気はしなかった。  自然に身体が動いたのだ。  稽古一万本——  毎日毎日、乱取りをした。  あのおかげだ。  身体が泥のように疲れ、もう、意識は飛んで、肉体だけが動いている——そういう状態に何度もなった。  疲れた身体が、自然に疲れない動きを覚えたのだ。  あの一万本の稽古がなかったら、もう、勝負は結着し、自分は負けていたろう。それがわかる。稽古が自分を救ったのだ。  稽古をするということの意味は、こういうことであったのか。  自分は、保科四郎の如き、天分はない。  横山作次郎の如き、強い力も肉体もない。  自分にできたのは、稽古をすることであった。  ただ、ひたすら稽古をした。  あの道場で、この肉体に叩き込んだものが今、この奥田と闘っているのである。  しかし、凄い男だ。  この奥田という男は。  投げられた時に、瞬時に身体を密着させてきて、寝技に自分を引き込んできた。  寝技になれば、多少のゆとりができる。  投げや当て身のように、一瞬にして勝負がついてしまうような技を、掛けられるということはない。  ひと息つくことができる。  自分の身体の下から、うねうねと逃げ続け、奥田は完全な押さえ込みのかたちに入らせない。  それどころか、この奥田は、下から技をかけてこようとさえしているではないか。 (六)  だいじょうぶだ。  奥田松五郎は、動きながらそう思う。  寝技については、自分の方が一枚上手だ。  山下が上で、自分が下。  かたちこそそうなっているが、常に流れを作っているのは自分の方である。仕掛けているのは自分であり、山下は、それを凌いでいるだけだ。  寝技のひと通りは心得ているらしいが、寝技の技量については自分の方が上である。  そもそも、寝技というのは、技の習得に費した時間の長さできまる。  当て身や、投げというのは、もって生まれたその人間の才能がものを言う。どこの、どういう間《ま》で力を入れるか、技を仕掛けるか、そのぎりぎりのところは、教えようとしても教えられるものではない。  しかし、寝技は違う。  寝技は、学べば学ぶだけ、強くなる。寝技の習得に費した時間が、そのまま寝技の強さとなる。  山下は、ただ上から必死で押さえ込んでくるだけだ。  たまに、こちらの手を取って、腕がためや腕拉《うでひし》ぎをねらってくるが、やり方が正直すぎる。さあ、腕をねらうぞ——そう言ってから腕を極《き》めにこようとするようなものだ。  どんな技がくるか、あらかじめわかっていれば、それから逃れることは楽である。  ならば、手はある。  相手の技に掛かったふりをして、逆に下から、こちらの技を仕掛けてやればいい。  それにも、手順はある。  餌だ。  餌を撒いてやる。  その餌に、この山下という男が喰いついてくれば—— (七)  山下は、攻めあぐねていた。  奥田の手首をとって、腕がらみに入ろうとすると、するりと逃げられてしまう。  襟をとろうとしても、とらせてもらえない。  片襟をとっても、逆に奥田は下からこちらの襟をとってくる。下から締めてくる。  攻め手を変えざるを得なくなる。  迷っていると、返されそうになる。  かろうじて、上になったこの体勢を維持するのがやっとだ。  自分が上になっているというのに、自分が奥田に対して何かをしているという感じがない。  逆に奥田に操られているような気さえする。  どこかで、わずかな失敗でもしたら、たちまち返されて立場が逆転してしまいそうであった。  上になっている自分の呼吸の方が荒い。  下から、奥田が執拗に襟をとりにくる。  なんというしつこさか。  ならば、こちらにも考えがある。  上体を持ちあげて、奥田と自分との間にもう少し距離をつくる。  すると——  下から、襟に向かって奥田の右腕が伸びてきた。  左の襟を掴まれる。  今だ。  山下は、自分の襟を掴むために伸ばされた奥田の右腕を両手でからめとりながら抱え込んだ。  奥田の右腕を両足に挟んで、仰向けになる。  腕拉ぎ——  取った。  これで、自分の勝ちだ。  山下は、自分の勝利を確信した。 (八)  掛かった。  山下が、自分の撒いた餌に喰らいついてきたのだ。  襟を執拗にねらっていると見せかけ、つい、上に手を伸ばしてしまった——山下にはそう見えたに違いない。  絶好の腕拉ぎの体勢になった。  その腕を、山下が取りに来た。  腕を抱えて、仰向けになる。  その動きに合わせて、奥田はくるりと身を起こし、仰向けになった山下の上になっていた。  取られた右腕の肘は、自然に曲がって、もう、腕拉ぎのかたちにもってゆくことはできなくなっている。  さあ、今度はこっちの番だ。  いくぞ。 (九)  何が起こったのか。  勝った——そう思った。  相手の腕をからめとり、それを抱えたまま仰向けになって、とった腕の肘を伸ばしてやる——それで、勝負がついたと思った。  そうしたら——  奥田が上になり、自分が下になっていたのだ。  よくわからないが、ともかく自分は罠をかけられたのだ。  その罠にひっかかってしまったのだ。  ああ、あの腕だ。  伸ばしてきたあの腕が罠だったのだ。  あんなに単純な罠にかかってしまうとは。  奥田が、上になっている。  身体を密着させ、奥田が呼吸を整えている。  思ったよりも、呼吸が荒い。  奥田もまた、疲れが出てきているのだ。 (十)  さあ、動け。  もう、休んだはずだ。  休むのはわずかでいい。  あとひと呼吸、ふた呼吸したら、仕掛けてやれ。  どうした。  疲れたか。  疲れているのではない。  休んでいるのでもない。  呼吸を整え、次に何を仕掛けてゆくかを考えていただけだ。  疲れるには早すぎる。  確かに、この自分は、この男よりも歳は上だ。  だが、まだ、これしきのことで息があがるようなやわな身体ではない。  まだ、一〇分も闘ってはいないはずだ。  それとも、これまでの攻防で、思ったよりも力を使ってしまったのか。それほど、この山下という男に実力があったということなのか。  酒か。  酒のせいか。  これまで、毎日のように、酒を飲んできた。  飲めば、どんなに少なくとも、五合、六合は飲む。  一升飲むことも珍しくなく、二升、三升と飲むこともあった。  しかし、このひと月余り、酒は一滴も飲んではいない。  酒を断った。  そうして、この試合に臨んだのである。  あれほど好きな酒を飲まずに、今日のこの日のために備えてきたのだ。  呼吸を整えねばならない。  深く息を吸い込む。  その瞬間、腹の下に押さえ込んでいた山下の身体が、はずむように跳ねあがった。 (十一)  山下は、下から、瞬間をねらっていた。  奥田が、大きく息を吸い込む時だ。  足と、肩と頭に体重を掛け、大きく身体を反らせたのである。  上に乗っていた奥田の身体を、宙に跳ねあげた。  奥田の呼吸を計りながら、大きく息を吸い込むのを待っていたのである。  治五郎が、稽古に取り入れた、西洋相撲——レッスリングのブリッジだ。  奥田の体勢を崩しておいて、またもや、自分が上になる。  大きな歓声が、試合場を包んでいた。 「立て、山下。立てい!」  横山作次郎の声であった。  立つ? 「立つんじゃあ」  歓声に混じって、横山の叫ぶ声が届いてくる。  そうか、そういうことか。  山下は、下にいる奥田の肩を、両腕で押しながら立ちあがった。  立って、上から奥田を見下ろした。 「怖じ気づいたか」  下から、仰向けになった奥田が声をかけてくる。 「来い」  両手で、おいでおいでをするように、奥田が山下を呼ぶ。  寝技でこいと、奥田は言っているのである。  山下は、動かない。  上から奥田を見下ろしている。 「行くな、立ってるんだ、山下!」  横山の声が響く。  横山の試合は第三試合だ。  本来であれば、気を落ちつけ、自分の試合に向かって、精神を集中させていなければならないところだ。  それをせずに、横山は、自分の試合のために声を掛けてくれているのだ。  山下は、立ったまま、奥田を見下ろし、逆に、 �立ってこい�  両手で奥田を誘った。  奥田も動かない。  山下も動かない。  ついに、久富鉄太郎が奥田に歩みより、 「立て」  奥田に立ちあがるよう声をかけた。  奥田が立ちあがる。  また、向き合った。 「始めい……」  久富鉄太郎が声をかける。  山下と奥田は、向き合って構えた。  奥田の肩が、上下している。  呼吸が荒い。  反対に山下の呼吸は整っていた。  さっきとは逆になっている。  山下が、前に出る。  奥田が退がる。  じわり、  じわり、  と山下が前に出てゆくと、奥田が退がってゆく。  奥田に、もう、後がない。  右手に回わり込んでゆく。  回わり込んだ奥田に向かって、山下がいっきに距離を詰めた。  組んだ。 「しえい」 「てえい」  投げあいになる。  奥田が、腰を低くして、山下の投げをこらえ、いきなり山下の襟を掴んだまま、仰向けになった。  山下を、寝技に引き込もうとしたのである。  しかし、山下は、こらえた。  奥田は、山下を寝技に引き込めずに、また畳の上に仰向けになった。 (来い)  下から奥田が声をかける。  山下は、寝技につきあわない。  久富鉄太郎が声をかける前に、奥田は自ら起きあがり、構えた。  山下が、前に出てゆく。  今度は、奥田は逃げなかった。  山下が近づいてくるのにまかせ、間合に入った瞬間、いきなり自ら組みにいった。  だが、奥田は、ただ正面から組みにいったのではない。  山下の腕をかいくぐり、身を沈めて、山下の足を取りにいったのである。  奥田の左手が、山下の右膝の裏にかかった。しかし、かかったのは指先だけだ。  はずれた。  山下が、上から腹の下にいる奥田に体重をあびせかけた。  奥田が、畳の上に腹這いになる。  このままいけば、山下に有利な体勢で寝技に入ることができる。だが、山下は寝技にはいかなかった。  立って、退がる。  奥田が、また立ちあがる。  呼吸が前よりも荒くなっている。  山下が、組みにゆく。  組んだ。 「かああっ」 「てええっ」  技の掛け合いになった。  やりとりが、二度、三度あり、 「えしゃあっ」  山下の払い腰が決まって、奥田が投げ飛ばされた。  奥田の足が、宙で半回転し、奥田は畳の上に転がった。  しかし、久富鉄太郎は、まだそれを一本とはとらなかった。  試合は、そのまま続くことになる。  山下が、仰向けになっている奥田に覆い被されば、そのまま寝技に入ることになる。  だが、山下は、ここでも自ら仕掛けることはしなかった。  立ったまま、奥田が起きあがってくるのを待った。 「卑怯だぞ、講道館!」 「何故、闘いを続けぬのだ!」  見物客の間から、声がかかる。  古流柔術の、道場生たちらしい。  それでも、山下は動かない。  奥田が立ってくるのを待った。  立ちあがってきた奥田を投げる。  立ちあがってきた奥田を、また投げる。  それを繰り返した。  もう、奥田はふらふらになっている。 (十二)  負けてたまるか。  奥田は、歯を噛んで、立っている。  負けてたまるか。  八歳の頃から、柔術を学んできた。  身体を鍛え、辛い修行にも耐えてきたのだ。  学んだのは起倒流だ。  投げを主体とする流派だ。  父のやっていた流儀を、そのまま学んだ。  起倒流の免状を受けた年に、明治と時代が変わった。  十八歳の時だ。 「強いのう、松」  強くなれば、父に褒められた。  それが嬉しくて、ますます修行に励んだ。 「松、おまえは天才じゃ」 「このわしより、天分がある」  父に、ここまで強くしてもらったようなものだ。  二十三歳の時に、父が死んだ。 「もう、柔術はしまいじゃ。新しい世に、柔術はいらん。商人になれ」  そう言い残して、父は死んだ。  酒をおぼえたのは、それからだ。  商人には、ならなかった。  意地で、柔術にしがみついた。  柔術以外に、生きてゆく術《すべ》を知らなかった。  道場を開き、道場生から金を取って柔術を教えていたのだが、道場生は減るばかりであった。  これではいけないと、厳しく鍛えれば鍛えるほど、道場生は減った。  柔術しか、生きてゆく術を知らないのに、その柔術では、生きてゆけない。  壮士たちの用心棒まがいのこともやった。  他人に言えぬような金の稼ぎ方をしたのも、一度や二度ではない。  もう、柔術は、この日本にはいらないのだ——そう思いかけていた。  自分は、このまま世に出ることもなく朽ち果てる人間なのだ。  そう覚悟した。  そういう時に、アメリカからグラント将軍がやってきたのである。  グラント将軍の前で、柔術を披露し、そして、それがきっかけとなり、三年前、警視庁の柔術世話係という役を得たのである。  ようやく、陽の当る場所へ出たのだ。  ようやく、まっとうな金で、妻や子を養うことができるようになった。  ここで自分が負けたら、また、あの頃に逆もどりだ。  負けられない。  自分の本当の敵は、嘉納治五郎——あの男だ。  嘉納治五郎も、思えば、グラント将軍の前で、一緒に柔術を披露している。しかも、同じ起倒流を学んでいる。  あの男が興した流派に負けるわけにはいかない。  起倒流は、投げが主体の流儀だ。  それで、三年前から、寝技を学んできた。  戸塚派の道場に出稽古にゆき、寝技を習得してきた。特に、このひと月は、寝技を集中してやってきたのだ。  講道館を倒すために——  嘉納治五郎は、帝大を出ている。  柔術でなくても、他にも生きる術はある。  他のことで生きる方が、ずっとたくさんの金が入ってくるはずだ。それなのに、何故、柔術などをやっているのか。  自分には、これしかない。  柔術しかないこの自分が、嘉納治五郎の興した流派に、負けるわけにはいかないのだ。  ここでの負けは、自分にとっては死にも等しい。  負けたくない。  負けられない。  絶対にだ。  奥田は、せわしい呼吸を繰り返しながら、山下を睨んだ。  投げでくる気か。  それならそれでいい。  自分も、起倒流を学んだ人間だ。  もともと、投げ技には自信がある。  いいだろう。  相手をしてやろう。  寝技にゆくと見せて、組んで、投げる。  頭から落とす。  それから上になればいい。  来い。  来た。  組んだ。  押してくる。  その力を流して、足を払う。  山下が、崩れる。  山下の身体の方に飛び込んだ。  腰を沈め、腰に相手の体重を乗せ、相手の存在そのものを上に跳ねあげる。  渾身の力を込めて。  こいつを投げたら、もう、力なんてひとしずくだって残らなくていい。  これまで、自分が柔術家として生きてきた全てを、この瞬間にかけるのだ。 �松、おまえは天才じゃ� �松、おまえは強いのう�  父の言葉が、脳裏に蘇える。 �もう、柔術はしまいじゃ。新しい世に、柔術はいらん……� 「あたあっ!!」  奥田は、裂帛の気合を込めて、投げた。  山下の身体を——  しかし、自分の上から、山下の重さが消えていた。  一瞬、奥田は、山下が消えたのかと思った。  そうではなかった。  次の瞬間、いきなり、自分の身体が浮きあがった。  天と地が、くるりと回転した。  背から、畳の上に叩きつけられていた。  投げられたのだ。  山下に。  それがわかったのは、上から、久富鉄太郎が、自分を覗き込んできたからであった。 「一本!!」  久富鉄太郎の声が響いた。 (十三)  久富鉄太郎が、右手を斜め上方にあげて、山下の勝利を宣言した。  鮮やかな投げであった。  これまで、奥田は何度も山下に投げられている。  しかし、それで一本とられることはなかった。  試合前の取り決めで、ただ投げただけでは一本とはならないとの約束ができあがっている。  ただ、全ての投げが、一本とならないのではない。試合場の畳が、もしも堅い地面であったら——そう考えた時に、場合によったら投げで一本をとるケースも出てくる。  それは、立ちあい人である久富鉄太郎が判断することになっている。  今の山下の投げは、充分にその一本に値する投げであると、久富鉄太郎が判断したことになる。  奥田は、ゆっくりと起きあがってきた。  髪が、汗の浮いた額や頬に張りついている。  奥田が、山下の前に立った。 「礼」  久富鉄太郎が言った。  奥田が、頭を下げる。  山下が、頭を下げる。 「ありがとうございました」  山下が言った。 「ありがとうございました。ありがとうございました」  山下が言う。  その声が震えていた。  奥田は、黙って歯を噛み、顔をあげてから山下に背を向けた。 (十四) 「大竹さん……」  腕を組んで、その光景を眺めていた、揚心流戸塚派の大竹森吉に声をかけてきたのは、隣りに座って試合を見ていた、同門の金谷元良である。 「なんじゃ」 「奥田さんは、まだ、やれるんじゃありませんか——」 「やれねえよ」  大竹は、腕を組んだまま言った。 「しかし、今の投げが、仮に地面の上だとしたって、やれないことはないでしょう」 「何度、奥田が投げられたと思ってるんだ。五度だ。それが、全部、地面の上だったら——」 「———」 「本当だったら、三度目に腰から落とされた時に決まりはついてるよ。あれで、一瞬奥田が動けなくなって、そこで頭の鉢を踏み割られておしめえさ」 「———」 「ここまでやらせたのは、久富さんの情けだ。ここで止めたのも、久富さんの情けだよ。あれ以上やらしちゃあ、ならねえ。それが、一番わかってるのが、奥田だよう」  言い終えた大竹の視線が、試合場の山下にもどった。  奥田が去った試合場に、まだ、独り、山下のみが残っていたのである。  山下は、奥田に対して頭を下げたその姿勢のまま動かない。  観覧席から、ざわめきが起こっていた。  もどりかけた久富鉄太郎が、踵《きびす》を返して、山下に歩み寄ろうとした時——  試合場に、身体の大きな男が上がってきた。  講道館の稽古衣を着ていた。  横山作次郎であった。 (十五)  横山は、山下の前に立った。 「どうした、山下……」  横山が声をかけた。  山下は、黙っている。 「どうした」  横山は、もう一度、声をかけた。 「足が、う、動かん……」  そう言った山下の口の中で、歯が触れあって、かちかちと音をたてている。  見れば、山下の両足ががくがくと小刻みに震えていた。 「山下……」  横山は、太い両腕を伸ばし、両掌を山下の肩に乗せた。  木さえも握り潰しそうな力が、山下の両肩を掴んできた。みりみりと音がしそうなほどであった。 「いいか、てめえの足で歩いてもどってくるんだ。わかったな」  ぱあん、  と山下の頬が鳴った。  横山の右掌が、山下の左頬を叩いたのだ。  山下の震えが止まった。 「もうだいじょうぶだ、横山……」  山下は、そうつぶやいて、顔をあげ、また一礼をした。  その時には、もう、横山は先に歩き出している。  山下は、自分の足で畳を踏みながら、歩き、試合場を降りた。 (十六)  宗像逸郎《むなかたいつろう》は、すぐ向こうにいる漢《おとこ》を見た。  岩だ。  そう思った。  ごつり、ごつりと、首、肩、腕の筋肉が膨らんでいる。  特に、頸《くび》の太さは異常であった。  明らかに、頭より太い。  中村半助——  丈、五尺八寸(一七六センチ)。  体重、二十五貫(九十四キロ)。  これに対して、宗像は、丈五尺六寸(一七〇センチ)。  体重、二十一貫(七十九キロ)。  ふたまわりは小さい。  通用するのか!?  宗像は思う。  自分の技が。  宗像逸郎——  慶応二年の生まれだ。  明治十七年、十九歳の時に講道館に入門した。  死んだのは、昭和十六年。  享年七十六。  三十五歳の時から四〇年間にわたって日記をつけていたが、この日記が空襲で焼失。  残っていれば、たいへんな資料となるところであった。  講道館では、真面目の逸郎で通っていた。  稽古を休まない。  言われたことは、何でもやる。  入門当時、なかなか勝てなかった。  いつも投げられている。 「何故でしょう」  治五郎に訊ねた。 「わかりやすいからだ」  治五郎は言った。 「わかりやすい?」 「押せば、押し返してくる。右へ襟を引けば、左へ身体を逃がそうとする。それを、みんなが知っている。だから、すぐに、崩されるのだ」 「わかりました」  しかし、結果は同じだ。  やはり、すぐに投げられてしまう。 「どうしてでしょう」  また、治五郎に訊ねた。 「引かれれば、引かれた方へゆき、押されれば退がる。それは、ある意味、柔《やわら》の極意なのだが、おまえの段階ではまだ無理なことだ。これも、押されて押し返すのと同じで、おまえがどう動くかわかってしまえば、簡単に崩すことができるのだ。緩急自在、時に応じて、こちらの動きも変化させねばならない」 「わかりました」  この真面目さが、逆に宗像をめきめきと上達させたのである。  才が溢れている——そういう人間ではない。  どこにでもいる。  柔は、一部の、強い人間だけのものではなく、才ある人間だけのものでもない。誰でも正しく学べば強くなることができる。 �普通の人間が強い�  ある意味、治五郎の夢を具現《ぐげん》した人物が宗像であった。  講道館入門まで、宗像はどういう流派にも入っていなかった。  その、まっさらな身体に、宗像は、たちまち技を吸収していったのである。  疑問があれば、訊ねる。  わからなければ、何度でも訊く。  あの富田常次郎が、辟易した。 「理屈ではない。身体で覚えろ」  そう言われれば、何度もその身体で繰り返す。  身体で問うてくる。  そのかわり、いったん自分の内部で技の理屈が通ると、いきなりその実力が跳ねあがる。  入門二年で、それまでどういう流派も学んでいなかった宗像が、この警視庁武術試合に出場することになったのは、そういう理由からだ。  本来は、実力から言えば、四天王のひとりである富田か、それに次ぐ実力を有している有馬純臣《ありますみおみ》が出場するところなのだが、有馬は、市川大八の道場で、照島と闘い、腕を折られている。  富田の出場かと思われたのだが、富田自身が、 「宗像を」  と、治五郎に推薦したのである。 「宗像なら、どこへ出しても講道館の人間として、恥ずかしい試合をすることはありません——」  治五郎は、宗像を選んだ。  負けられぬ——  宗像は、拳を握り締めた。  わざわざ、自分を推薦してくれた富田のためにも負けるわけにはいかない。 「強さというのは、けしてひとつのもので量ることはできないのです」  ある時、治五郎が、道場生を集めてそう言ったことがある。 「力が強い、身体が大きい——たしかに、そういう人間が、力の弱い者や身体の小さい者に対して有利であるのは否めません。しかし、それでは、強さというのは、生まれつき、ということになってしまいます」  宗像の胸に沁みた訓話であった。 「強さにも、色々の要素があります。動きの疾《はや》いこと、頭のよいこと、精神力、技、反射神経——力が強いことや身体が大きいということは、その要素のひとつに過ぎません。どんなに身体の大きな、力の強い相手でも、いったん崩してしまえば、投げることは容易なのです」  その通りだと思った。  確かに、今、眼の前に立っている中村半助は、身体が大きく力も強い。  ただ、それは、強さの一部だ。  全てではない。  負けるわけにはいかない。  負けてたまるか。 (十七) 「始め!」  久富鉄太郎の声が響き、  どん、  と太鼓が鳴った。 「りゃ」 「りゃ」 「りゃ」  声をあげながら、宗像は右へ動いた。  動きながら、距離を縮めてゆく。  中村半助が、すうっと身体を回わして、宗像の動きに合わせてくる。  滑らかな動きだ。  右への動きを、ふいに左へ変化させ、宗像は半助の懐に飛び込み、襟と袖を取った。  取ったその瞬間に、宗像は驚愕した。  これは、人ではない。  そう思った。  岩というより、山だ。  動かない。  動かせそうにない。  びくともしそうにない。  何という重さか。  ほぼ同時に、半助も、宗像の襟と袖を掴んでいる。  その力が、桁はずれに強い。  なのに、気配としては、半助はいくらも力を入れているようには見えない。  ただ、そこに立って、宗像の袖と襟を掴んでいる。  それだけのことだ。  それだけのことなのに、宗像は動けなくなってしまった。  こんなものを、投げることができるのか。  人が、山を投げることなどできるのか。  どれほど動きが疾かろうと、どれほど技があろうと、人は、山を投げることなどできない。  半助を突き放し、距離を作ろうとした。  しかし、その距離が作れない。  逆に距離をつめることもできない。  半助に、襟と袖を掴まれただけで、動けなくなってしまったのである。 「むう」  力を込めても、どれほどの変化もない。  変化がなければ、投げることはできない。  宗像の肩が、大きく上下している。  もう、息があがっている。 「それだけか……」  低い声が響いた。 「こちらが動かねば、何もできぬのか」  がっかりしたような、半助の声であった。 「嘉納流、楽しみにしていたのだ」  よく通る、不思議な響きのある声であった。  一カ月ほど前であったか。  三島通庸に呼ばれた。 「すまぬが、君の相手は宗像になった……」  三島はそう言った。 「君が、横山か、保科とやりたがっていたのはわかっているが、ここはこらえて欲しい」  しばらく前に、勝安芳《かつあんぽう》がやってきて、横山と照島の対戦を考えて欲しい——そう言ってきたのだという。  保科は保科で、内々に好地円太郎と対戦が決まっており、すでにそれを講道館、戸塚道場に伝えてあるのだという。 「宗像逸郎、講道館四天王の富田より、実力は上じゃ。だからこの大会に出場する——」  以前、半助が三島に願ったのは、強い相手を、ということである。 「君の願いに充分叶う相手と思う」  半助は、しばらく無言で三島を見つめ、 「承知いたしました」  それだけを言って、頭を下げた。  そういうことがあったのである。 「ちいっ」 「ちい、ちいっ」  声をあげながら、宗像が、足の裏で、半助の足を刈ろうとする。  びくともしない。  鋼鉄の棒を蹴っているようであった。 「嘉納君は、君に何も教えていないのか——」  半助が言った。  宗像の喉が、ぜいぜいと鳴っている。  半助にしがみついたまま、宗像は、勝手に自滅してゆこうとしていた。 「ぬし、他流と試合うのは初めてか」  半助が言う。  しかし、その言葉は、ほとんど宗像の耳に入っていなかった。 「ぬわわっ」  手を離し、宗像は、大きく後方に飛んだ。  それを、半助は追わなかった。  黙って手を離した。 「宗像、落ち着け。力を抜けっ」  横山の声が聴こえた。  宗像は、喘ぎながら、半助を見た。  半助は、ただ、そこに突っ立って、宗像を見つめている。  と——  何を思ったのか。半助は、ふいにそこで腰を落とした。  畳の上に、正座をして、眼を閉じた。  宗像は、半助を睨む。  拳で、額の汗をぬぐった。  正座をして、眼を閉じた半助を見やり、宗像は歯を噛んだ。  どうしたのだ。  おれに、どうしろというのだ。  この、座して眼を閉じている半助に、攻撃を加えていいというのか。  半助は、ただ眼を閉じ、両手を太股の上に静かに置いている。  それだけだ。 「くう……」  宗像は、小さく喉の奥で音をたて、 「くむむむ」  唸るような声をあげて、半助と同様にそこに座した。  眼を閉じる。  喘ぎながら、呼吸を整える。  まだ、ほとんど何もしていないに等しいというのに、この息のあがりようは何だ。  心臓が、こめかみで音をたてている。  自分でも、これまで思ってもみなかったようなものが、自分の肉の中にあったのだ。  これしきのことで、こんなに、呼吸を荒くしてしまうなんて—— �おまえだけじゃない�  横山の言葉が、頭の中に蘇った。  ふう、  ふう、  呼吸をしているうちに、息が整ってきた。  久富鉄太郎は、何も言わずに、ただふたりの間に立っている。  やがて——  宗像は、眼を開いた。  半助が、すぐそこで、眼を閉じて座している。  久富鉄太郎が、立ったまま、こちらを見つめていた。 「中村先生……」  宗像が、半助に声をかける。  半助が眼を開いた。 「お見苦しいところを、お見せいたしました。ありがとうございます。もう、だいじょうぶです」  頭を下げて、宗像が立ちあがった。  無言で、半助が立ちあがった。  見つめあった。  宗像が、するすると、半助に向かって動いてゆく。  自分の負けである——  宗像は、そう思った。  今、一度自分は負けたのだ。  中村半助に。  凄い男だ。  そう思ったら、ふいに、気持ちが楽になり、呼吸が楽になった。  一度負けた自分だ。  もう、恐いものはない。  中村半助——このような武術家がいることを知っただけでも、この人物と闘うことができるだけでも、何という幸せか。  半助の胸を借りる。  そういうつもりであった。  手を伸ばす。  半助も手を伸ばしてくる。  どちらからともなく、組んだ。  柔らかい。  さっき、あれほど堅く、重かった半助の身体が、今は別人のようであった。  宗像に加えられてくる力の、なんと柔軟なことか。  ああ——  そうか。  さっき、半助が重く、びくともしないように見えたのは、自分の身体が堅かったからなのだ。  自分が、ただ力まかせに半助を投げようとした、それが半助を山のように重くしたのだ。  動く。  動く。  山が、動く。 「えしゃあっ」  自分の耳元で、鋭い呼気が迸《ほとばし》った。  身体が、宙に浮いていた。  腰を跳ねられたのだ。  宙で一転して、背中から畳の上に落ちる。  講道館では、これで一本である。  しかし、この試合においては、投げられただけでは一本とはならない。  すぐに、半助の上体が上からかぶさってきた。  逃げる。  半助の身体が追ってくる。 「くう」 「むん」  半助の身体の下で、宗像の身体がくねる。  楽しい——  宗像は、攻防の中で、そう思った。  宗像は、闘いながら、口元に笑みを浮かべていた。  襟を掴まれる。  次は、帯をねらってくる。  掴ませない。  すると、体を入れかえて袖だ。  かわす。  その時には、裾を掴まれている。  逃げる。  凌いだ。  しかし、ほっとする間がない。  すぐ、半助が次のことを仕掛けてくるからだ。  それを凌ぐ。  しかし、凌ぎながら、自分が追いつめられてゆくのを、宗像は理解していた。  これは、詰め将棋だ。  確かに、自分は間違わずに逃げ続けている。  だが、このままでは必ず寄せきられることになるのはわかっていた。  半助は獣のようだ。  獣のように力が強い。  そして、正確だ。  この動きを、どこかで止めねばならない。  勝つ方法でなくていい。  とりあえず、負けぬことだ。  負けぬ方法はないのか。  半助が、宗像の上にのしかかってくる。  ここだ。  宗像は、下から、半助の身体を抱擁した。  両腕で、その頭を抱え込んだのだ。  両脚を、半助の腰に巻きつけた。  ようやく、動きが止まった。  これで、考える時間ができた。  みっともないかたちだが、まだ負けたわけではない。  それにしても、両脚の間に抱え込んだ半助の胴の、なんという太さか。  巨木のようであった。  頬を寄せあっている。  自分の耳元で、半助が太い呼吸を繰り返している。  少し、呼吸が荒くなったか?  ふっ、  ふっ、  という、半助独特の呼吸音が聴こえている。  どれだけ休めるかではなかった。  どれだけ考えることができるのか。  考えろ。  どうしたらいい?  半助が持っていなくて、自分が持っているもの。  自分の武器は何だ。  力は、圧倒的に、半助が勝っている。  技は?  互いに知っている技であれば、半助に一日の長があろう。しかし、技の機微というのは、それだけではない。同じ技でも、得意か得意でないかで、その切れには大きな差が出てくる。  なんだ。  何を考えているのだ。  そんなのはあたりまえのことではないのか。  考えたって、わかるものではない。  流派は!?  流派はどうなのだ。  半助は、良移心頭流——  自分は嘉納流——  試合前から、それはわかっている。  敵を知るために、調べた。  祖は、福野七郎右衛門正勝。  摂津浪花の出で、丹後の浪人であった。  柳生石舟斎宗厳《やぎゅうせきしゅうさいむねよし》に新陰流剣術を学び、寺田平左衛門定安から、貞心流和術を学び、後に良移心頭流を起こした。俗には福野流と呼ばれている。  寛永三年から四年、麻布の国昌寺で、大陸から渡ってきた陳元贇《ちんげんびん》から、中国拳法を学んでいる。  たどれば、治五郎が学んだ起倒流とも地つづきだ。  これを、半助は学んでいる。  九州久留米の下坂道場だ。  もと、武士。  おふじという妻を亡くしている。  四年前——明治十五年、竹内三統流の佐村正明と闘い、敗れている。  その後に、警視庁の柔術世話係として、東京に出てきた。  今では、柔術界の重鎮といっていい。  だが、何だというのだ。  そういうことを、今、こんな状況で思い出して何になる。 「焦らんでいいぞ、宗像——」  声が聴こえてくる。  横山の声だ。  昨夜、眠れぬままに道場で稽古をしていると、横山が出てきた。  ——安心しろ。  と、横山は言った。  ——おまえだけじゃない。  あの言葉に救われた。  おかげで、あの後眠ることができたのだ。  さっきも、その言葉で自分はたちなおることができた。  そうだ。  自分は、あの横山と稽古をしてきたのだ。  この半助に勝るとも劣らない、講道館の実力者だ。  それを思えば、怖くない。  宗像は思った。  確かに、自分は、まだ若い。  二年前に、講道館に入門したばかりだ。  十九歳の時だ。  柔術を学んだのは、講道館流のみである。  他に、どのような流派も学んではいない。  自分が今身につけている全てのことは、講道館で学んだものばかりだ。  そういう意味では、横山とは違う。保科四郎とも違う。ふたりは、別の流儀を学んでから、講道館に入門している。  そういう意味では、自分の身体に染み込んでいるのは、頭のてっぺんから爪先まで、講道館流である。  講道館入門に関する限り、あの横山よりも早いのである。  自分は、あの横山の兄弟子なのだ。  この二年間は、稽古漬けであった。  一日も休まない。  起きている間中、嘉納流のことを考え、眠ってからは夢に見た。眠っている時も稽古をしてきたようなものだ。  それだけだって、普通の人間の倍、稽古していることになる。起きている時だって、ただひたすら稽古をした。  しかも、講道館では、秘伝も何もない。  人は、何故、倒れるのか。  どういう時に、投げることができるのか。  その、柔術の根本的な理《り》を、治五郎が教えてくれるのである。  他の道場では、二年かかるところを、一年で学ぶことができる。それは、治五郎が、柔術を、きちんとした理の体系として作りあげ、教えてくれるからだ。  自分の二年は、他者の四年分の稽古に匹敵する。  自分は信じなくともいい。  自分を出場者として選んでくれた、治五郎を信ずればいいのだ。  呼吸を整える。  自分の武器があるとするなら、この若さだ。  半助は、四〇歳か、四十一歳であったか。  どちらが、呼吸が荒い?  時間を稼げば、先に疲れてくるのは、半助の方であろう。  ふう、  ふう、  呼吸を整える。  この状態になってから、どれだけの時間が過ぎたのか。  様々のことを考えたような気もするが、まだ、ほんの一〇秒くらいのことであろう。 「よくぞ凌ぎなさったの……」  耳元で声がした。  その声がした途端に、宗像の上に乗っていた獣が動き出した。  半助の太い右腕が、重なったふたりの身体の間に這い込んできた。  むりっ、  その腕が急に太くなった。  みりみりと、巨木を裂くように身体がひきはがされた。  両腕で宗像がしがみつく力よりも、たった一本の半助の腕の方が力が強い。  襟を掴まれた。  危ない。  必死で、動く。  半助の首が、自分の右肩近くに来た。  今だ。  寝技の流れの中で、唯一訪れた機会であった。  宗像は、半助のその首を、右脇に抱え込んでいた。  右腕——そして、左腕を半助の首に回した。  回した途端に、宗像は驚愕していた。  なんという太い首であろうか。  なんという堅い首であろうか。  岩のようだ。  その時、宗像は覚《さと》っていた。  自分の腕が、半助の首を捕えたのではない。  捕えさせられたのだ。  圧倒的な太さ。  この首を締めて、半助からまいったを取ることなどできるわけがないということを。  そして、この首を捕えることの代償として、半助の右足一本を、足の間から逃がしてしまった。  襟を取ってきたのも、首をさし出してきたのも、みんなこの足を抜くための罠だったのである。  今、かろうじて宗像は、半助の左脚を両脚の間にはさんでいるだけだ。  半助の左手が、宗像の左膝に当てられた。  押された。  透き間をつくられ、半助の左脚が逃げる。  頭部を、宗像に抱え込まれているというのに、それをまったく意に介していない。  対処する間もなかった。  ぐうっと、宗像の上体が持ちあげられた。  猛牛が、人の身体の下に頭を差し込んで、角でその肉体を無造作に空中に放りあげるようなものだ。  半助が立ちあがる。  その頭部を右脇に抱え込んでいる宗像も自然に立ちあがることとなった。 「くわっ」  立ったその瞬間に、宗像は両足で畳を蹴った。両脚を半助の胴に巻きつけ、両腕を半助の頸部にからめ、上体を反らせながら、体重全てを半助の首にかけた。  まるで効いていない。  腕の中で、半助の首が、自由に呼吸をしているのがわかる。  あっさりと、その首が抜かれた。  抜かれた時には、もう、宗像の上体が上昇しはじめていた。  帯を両腕で掴まれ、宙に向かって持ちあげられてゆくところであった。  上に持ちあげられてゆくに従ってその速度が増し、宗像の身体は、半助の頭上より高く持ちあげられていた。  その一番上まできた時、ふっ、と宗像の体重が消えた。  いきなり、落とされた。  いや、叩きつけられたのだ。  後頭部が畳にぶつかった。  会場が、息を呑んだ。  しかし、その瞬間に、ひとつの事件が起こっていたのである。  自分の体重が消えたその時、身体が落下してゆく前に、宗像は、自分に何が起ころうとしているのか、理解していた。  このまま、後頭部から畳の上に叩きつけられるのだな——  そう思った。  これは、死ぬな。  これが、地面であったら、まず、間違いなく死ぬことであろう。  たとえ、受け身を取っても、下が地面か岩なら、どうしようもない。  畳の上であったら?  受け身をとれば、死ぬことはないかもしれない。  生命は助かる。  しかし、それでは自分の負けだ。  講道館柔道の敗北だ。  投げを、勝負の機微の中に取り入れることが、今回の試合の約束である。もともとは講道館柔道に有利な取り決めだ。その取り決めで自分の負けになる。  若さを武器にするなどということは、あれは、この自分の思いあがりであった。  実力が拮抗していてはじめて、若さというものが武器になり得るのだ。  恐怖がふきぬける。  死の恐怖ではない。  敗北することへの恐怖であった。  敗北は、死よりもおそろしい。  ならば——  死ねばいい。  そう思った。  死ね。 (十八)  宗像を後頭部から畳の上に叩きつけながら、 �馬鹿な……�  思わず、半助は心の中で声をあげていた。  宗像に、受け身を取ろうとする様子がなかったからである。  受け身をとると思っているからこその、攻撃であった。  それで、自分の勝ちである。  しかし、宗像は、半助の襟に、手を伸ばしてきたのだ。  受け身をとらねば、まともに後頭部が畳にぶつかる。  幾ら畳とはいっても、布団のように柔らかなものではない。  堅い。  そこへ、自分が全力で後頭部を叩きつけようとしているのである。  首の骨が折れるか。  鉢が割れるか。  脳が挫傷するか。  いずれにしても、そのまま死へと直結しかねない攻撃であった。 「ぬう!?」  半助が、迷った時、畳に宗像の後頭部がぶつかって、その瞬間、半助の身体は宙に舞っていた。  巴投げ。  死を覚悟して、宗像が放ってきた技であった。  投げられながら、半助は畳の上で受け身を取り、一転して立ちあがっていた。  足元に、宗像が、仰向けになって倒れていた。  眼を開いたまま、宗像は意識を失っていた。 「一本!」  久富鉄太郎が、半助の勝ちを宣言した。 (十九)  横山作次郎は、試合場に立って、向こうにいる対戦相手を見つめていた。  揚心流戸塚派の照島太郎である。  巨漢だ。  横山の丈五尺六寸二分よりも大きい。  目方もありそうであった。  小山のような男であった。  試合場には、まだ、前の試合の余韻が、微熱のように残っている。  よい試合であった。  宗像の後頭部が畳にぶつかる直前、半助が宗像を庇ったのである。  落下の速度をゆるめたのである。  何故、半助がそのような真似をしたのか、横山にはわかっていた。  宗像が、受け身をとろうとしなかったからだ。  あのまま後頭部を叩きつけられていたら、ことによると、宗像は死んでいたかもしれない。  また、死んでいたとしても、誰も文句は言えない。  それを、半助が庇ったのである。  そこを、逆に落とされた力を利用して、宗像が半助を投げたのだ。  宗像は意識を失い、半助は投げられたもののすぐに起きあがった。  久富鉄太郎が、半助の勝ちを宣言したのは正しい。  半助は、すぐに宗像に駆けより、鼻先に指をもっていって、宗像がまだ呼吸していることを確認してから、そこに正座をして、宗像に向かって一礼をした。  その試合の余熱が、まだ畳に残っているのである。 「始め!」  久富鉄太郎の声が響いた。  しかし、どちらもそこから動かなかった。  横山は、そこに仁王立ちになって、照島を睨んでいる。  おまえから来い——  横山の姿が、そう言っているように見える。  照島は、ただ立っている。  なんだ、来ないのか。  照島は、そう言っているように見える。  照島は、右手を持ちあげ、太い指で、頭をごりごりと掻いた。  まるで、女が、男を誘うような眼で、照島は横山を見つめている。  しかし、横山は動こうとしない。  照島は、苦笑した。 「じゃ、おれから行こうかな……」  ぼそりとつぶやいて、照島は足を踏み出してきた。  急がない。  ゆっくりと。  ふたりの距離が縮まってゆく。  横山は動かない。  動いているのは、照島だけだ。  間合いに入る。  どちらからともなく、ふたりの手が持ちあがる。  組んだ。  互いに、右手に相手の左襟を、左手に相手の右袖を掴んでいる。  組んだその瞬間に、また動かなくなった。 「む」 「む」  ふたりが、低く声をあげる。  動かないが、ふたりの身体に力が入っているのがわかる。 「いきなりくるのかと思ったんだけどな」  照島が言った。 「小者が自分からいくんだよ」  横山が言った。  声に、まだ、ゆとりがある。 「む」 「む」  さらに力が籠もってゆく。 「凄いな……」 「まだだ……」  さらに、力が籠められる。  ふたりに、言葉を発するゆとりがなくなってきた。 「くむっ」 「くむっ」  ふたりの顔が、赤くなってゆく。  逆に、襟と袖を握っているふたりの指が白くなってゆく。  赤かった顔色が、こんどはゆっくりもどりはじめた。  ふたりの身体から、力が抜けてゆく。  離れた。  ふたりが、肩で、大きくひとつずつ息をついた。 「せやあっ」 「かああっ」  声をあげて、また、組んだ。 「くわっ」 「むわっ」  互いに、力で、相手をねじ伏せようとしている。  意地の張り合いであった。  柔《やわら》の試合ではない。  力の比べ合いだ。  どちらが大きな岩を持ちあげることができるのか。  ふたりが今自分たちの肉体を使ってやっているのは、そういう勝負であった。  一〇分が経った。  まだ、ふたりは力の比べあいをしている。  状況に、ほとんど変化はないように見えた。  見ている方に、力が籠もる。  腕の筋肉も、首の筋肉も、ぶくり、ぶくりとふくれあがり、節くれだった木のように見える。  筋肉は、石のように硬くなっている。  互いに全力で力を入れあっているのである。  常人なら、二分と続かない。  状況に変化があるとしたら、ふたりの額に浮き出てきた汗であった。その汗が、頬を伝い、顎の先から畳の上にしたたり落ちている。ふたりの着ている稽古衣もずぶ濡れになっている。 「ぐむっ」 「ぐむっ」  ふたりの額が、音をたててぶつかった。  観客にまで届く、凄い音であった。  どちらかの鉢が、それで割れてもおかしくないような音だ。 「意地っ張りだなあ……」  口で呼吸をしながら、照島が言った。 「言ってたよなあ……」  やはり、口で息をしながら横山が言った。 「何を……」 「講道館は、寝技ができないんだって?」 「そのことか」 「やってみろよ」  横山は言った。 「おまえの得意な寝技だか何だか知らねえが、倒さなきゃあ、寝技にならねえぜ……」  横山の呼吸が荒い。  その荒い呼吸をしながら横山が言った時、 「へあっ!」  はじめて、照島が横山を投げにいった。  足に足を掛け、投げようとした。  しかし、横山は動かない。  畳に根が生えたように、足がゆるぎもしない。 「かあっ!」  こんどは横山であった。  横山が、照島を投げにいったのである。  しかし、照島も動かない。 「へあっ!」 「かあっ!」  互いに投げの打ち合いになった。  しかし、どちらも動かない。 �崩《くず》し�  を仕掛けていない。  ただ、力で投げにいっている。  ばりっ、  という音がした。  横山が、照島を投げにいった時、その凄まじい力のため、横山の右手が握っていた照島の襟が破れたのである。 「ちいっ」  横山は、離れた。  照島と、近い距離で向き合う。  両者とも、肩で息をしていた。  横山の、右手の先から、血が畳に滴り落ちていた。  横山の右手の中指の爪がはがれていた。  今、投げを打ちにいって、掴んだ襟が破れたひょうしに、爪をはがしたのである。  横山は、右手を持ちあげ、中指の先を口の前まで持っていった。  横山は、はがれた爪を歯で噛み、指先から引きちぎった。 「べっ」  と、爪を血と共に吐き出した。 「しゃあっ!」  声をあげて、横山は足を踏み出し、組みにいった。  これまでとは一変して、動きのある闘いとなった。  互いに相手を崩そうとするが、崩せない。  照島が、横山を寝技に持ち込もうとするのだが、横山を倒せないのである。  揉み合ううちに、 「ふっ」  と照島が息を吐いた。  照島の身体が沈んだ。  照島が自ら仰向けに倒れ込みながら、横山の袖を引いた。  照島が、横山を寝技に引き込む手に出たのである。  倒せなくとも、自ら倒れ込みながらであれば、相手を寝技に引き込むことができるからだ。  横山の身体が、仰向けになった照島の上にかぶさってゆく。  ごぢっ、  という音がした。  倒れ込みながら、横山が、照島の顔面に右膝を落としたのである。  横山は、すかさず立ちあがっていた。  寝技にはつきあわない胆《はら》であるらしい。  むくりと、照島が上体を起こす。  鼻がひしゃげて、横に曲がっていた。  照島のふたつの鼻の穴から、どろりとした血が流れ出している。 「こういうのありなんだ……」  照島は、その血を稽古衣の袖でぬぐった。  照島が、つぶやいた。  照島の言った�こういうの�というのは、打撃技——当て身のことである。  今回の試合規則は、当て身を許されている。  眼と、股間の急所への攻撃、噛みつきは禁止されているが、当て身に関しては、禁止事項の中に入っていないのだ。  照島は、右手の指で鼻をつまみ、  めちっ、  とねじった。  鼻のかたちがもとにもどっている。 「ありなのか……」  つぶやいた唇が、微かに笑っている。  その顔を、横山は平然と見下ろしている。  やったら、やり返される——それが、こういう勝負の掟だ。  横山が、先にそれを仕掛けた。  次は、照島も仕掛けてくる。  それを思うと、普通先にやった方は恐怖を覚えるものだ。  だが、横山の顔に浮かんでいるのは、恐怖というよりは悦びの表情であった。  たとえ、胆の底で恐怖を覚えていたとしても、それが背骨を昇って顔に現われる時に、悦びの表情になっている。  背骨のどこかで、横山は恐怖を悦びに変化させてしまっているらしい。  むくりと、照島の巨体が起きあがってきた。  横山は、仕掛けずに、照島が立ちあがってくるのを待った。  下手に仕掛けて、寝技にもち込まれるのを避けているのかもしれない。  横山の身体と照島の身体が、再び近づいてゆく。  お互いに、袖を取りにゆく間合に入ったその時、照島の右足が、畳を離れて前方に向かって跳ねあがった。  どん、  と、何かが横山の腹で爆発した。  蹴足《けぞく》。  照島の蹴りが、横山の腹のあたりをしたたかに打ったのである。  横山の上体が、「く」の字に折れる。 「一本……」  照島がつぶやく。 「左の肋《あばら》の一番下、いただき」  照島は言った。 「その蹴り、挨拶代りにもらってやったんだよ」  横山は、腹を押さえ、白い歯を見せながら言った。 「無理しちゃって」  照島が組んでくる。  襟を取りにきた照島の顔を、横山は拳で打った。  拳と言っても、指の付け根の外側——骨の堅いところではない。  手刀で相手を打つ時の下側の部分、そこで照島の顔を叩いたのである。 「効かないね」  照島が、顔を、分厚い右掌でつるりと撫でた。  撫でたその手が内側にたたまれ、右肘が前に出てきた。  そのまま、照島が踏み込んでくる。  照島の肘が、横山の頬を打った。  打たれた場所を手で触りにゆくかわりに、横山は照島に打ちかかっていた。 「ちっ」 「むっ」  横山と照島が、当て身で打ち合った。  ごつん、  どすん、  人の肉や骨が、人の肉や骨を打つ音が響いた。  照島は鼻から、横山は口から血を流していた。  凄まじい打ち合いとなった。  久富鉄太郎は、それを止めるつもりはないらしい。ふたりの打ち合いを、ただ見守っている。再び、横山の腹に、照島の蹴足が入った。  横山の巨体が、ぐらりと傾いた。  横山の尻が、畳に落ちた。  照島の勝機であった。  あの横山が尻をついたのだ。  このまま飛びつけば、そのまま寝技に移ることができる。  照島が、跳び込むように、横山の上に被さってゆく。  その照島の巨体を、横山が、肩で受けとめていた。 「かかりやがったな」  山がそそり立つように、横山が立ちあがった。  照島の身体が横になって、横山の両肩の上に担ぎあげられていた。  相撲の�衣被《きぬかつぎ》�のかたちに近い。  講道館流で言えば、肩車だ。  しかし、それは、衣被でも肩車でもなかった。  立ちあがった勢いを利用して、横山は照島の身体をさらに上に差しあげ、頭の上に乗せていたのである。  長身、横山の頭上から、照島の身体が逆しまに落とされた。  天狗投げ——  横山の得意技であった。  講道館で練習する時には、頭からは落とさない。  受け身がとれるように、肩や背から落ちるようにする。  しかし、横山はそうしなかった。  照島を、脳天から逆落《さかお》としにしたのである。 「一ぽ……」  久富鉄太郎は、右手をあげて、�一本�を告げようとしたが、その声と手が、途中で止まっていた。  頭から落とされてゆく照島と一緒に、横山の身体が倒れ込んでいったからである。  横山が、自らの体重を乗せて、一緒に倒れていったのか、投げられる照島が、横山の襟を掴み、共に倒れ込んだのか。  その両方に見えた。  照島が、倒れたかたちのまま、横山の襟を左手でつかんで、頸を締めようとする。  太い両脚を、横山の胴にからめてくる。  それを振りほどいて、横山が立ちあがった。  照島が立ちあがる。 「凄いね……」  照島が言った。 「本気で頭から落とすんだから——」 「いけなかったかい」 「いけなくないよ」  照島がつぶやく。 「おもしろいな」 「おもしろいね」  ふたりが、笑っている。  ぞくぞくするようなものが、横山の背に張りついていて、それをこらえようとすると、自然に唇に笑みが浮いてしまうらしい。  会場に、その時、低いどよめきが生まれていた。  横山と向きあっている照島の右腕が、だらりと体側に伸びたままになっていたからだ。明らかに、左腕よりも長くなっている。  もつれあって落とされた時に、肩がはずれたのだ。  もしも、肩がはずされていなかったら——  横山は逃げることができずに、あのまま寝技の攻防になっていたかもしれなかったところである。 「待てい」  久富鉄太郎が、右手を前に出し、声をあげた。 「肩を嵌《は》める」  久富鉄太郎が、照島の前に立った。  照島が、そこに正座をする。  それを見ていた横山が、やはり無言でそこに正座した。  久富鉄太郎が、座した照島の右腕を両手で握って持ちあげる。  すでに、自分が何をされるか照島にはわかっている。  久富鉄太郎は、照島の右腕を持ちあげ、回わし、角度を決め、 「ゆくぞ」  声をかけ、 「むん」  気合もろとも、押し込んだ。  むしろ、はずれる時よりも、肩を元にもどす時の方が、痛みは強い。  それも、激烈な痛みだ。  しかし、照島は、呻き声すらあげなかった。  照島が立ちあがる。  照島が、軽く右腕を回わす。  見た目は、もう、普段とかわりないように動く。  しかし、右肩の靭帯は、ぼろぼろになるほど傷んでいる。  患部を冷やし、しばらくは過激な運動をその右肩に課すことは避けねばならないところである。しかし、まだ、闘いの最中であった。  試合開始から、すでに二〇分余りが過ぎている。  横山も立ちあがっている。  再び、ふたりは向きあった。 「始めっ!!」  久富鉄太郎が声をあげる。  じわり、じわりと、照島が前に出てきた。  組む。 「しっ」 「はっ」  互いに身体を崩しあって、 「てしゃあっ」  横山が、腰車で照島を投げる。  照島が起きあがってくる。  組む。 「くむ」 「ぬむ」  動く。 「えしゃあっ!」  横捨て身——  横山が、照島を投げる。  横山が、技を使いはじめたのだ。  しかし、まだ、久富鉄太郎が一本を宣言するには至ってない。  照島が起きあがる。  組む。 「かああっ!」  横山が、照島を投げる。  浮車。  起倒流の投げ技であった。  投げられたと見えた照島が、横山に体重を預け、そのままふたりは重なりあって倒れていた。倒れる時に、照島の肘が横山の顔の上に乗っていた。  肘で、横山は顔面をしたたかに打たれていた。  立ちあがれない。  照島が、横山の上に被さっていた。 「これからだよ……」  照島が、横山の耳元で、嬉しそうに囁いた。  寝技の攻防に入っていた。 (二十)  横山は、上から被さってくる照島の身体を両脚の間に挟んでいる。  太い。  大きな丸太を挟んだようであった。  照島が、上から横山の襟を掴んでくる。  それを凌ぐと、今度は右腕を取りにくる。  それを凌ぐと、今度は左腕を取りにくる。  左と思えば右。  右と思えば左。  襟をねらったり、頸をねらったりしてくる。  初めの、力にまかせた攻防が、嘘のようにねちっこい。  執拗である。 「へえ……」  照島が、横山の耳元で、睦言《むつごと》を囁く。 「横山さん、できるんだ……」  言っている間も、するりするりと動く。  動いて、関節をねらってくる。  襟をうまく取られたら、頸を極《き》められてしまう。  頸を極められたら、落ちる。  痛みなら我慢できるが、頸を極められると、その我慢する気持ちそのものを断ち切られてしまうのである。  我慢で耐えることのできる技ではない。  照島が、横山の脚の間から、片足を抜く。  そして、もう一本。  横四方《よこしほう》のかたちである。  これだと、腕がらみもねらえるし、頸もねらえる——腕拉《うでひし》ぎもねらうことができる体勢であった。  横山が、逃げる。  照島が追う。  もつれあう。  と——  横山が、ふいに、腰を跳ねあげた。  首と足とで、ブリッジを作る。  レッスリングの技だ。  上と下が入れかわった。  横山が上になっている。 「ずるいな……」  下から、喘ぎ声とともに照島が言った。 「横山さん、できるじゃない、寝技……」 「悪かったな」  横山が、照島の裂けた襟を取りにゆく。  照島が、凌ぐ。  さっきと逆になった。  照島も、下から横山の腕をねらってくる。  どちらも取りきれない。  横山の息が、切れている。  鼻の先と、顎の先から汗が垂れて、下にいる照島の顔の上に落ちる。  照島が横に逃げると、それまで照島の背があった場所から移動した場所まで、畳の上に濡れた跡ができる。  どちらの道着も、すでに濡れ雑巾のようになっている。 「がっ」 「がっ」  と、ふたりの吐き出す呼気の音が響く。  すでに、闘いが始まって三〇分が過ぎていた。 「やめじゃ」  横山が言った。  照島の胸を、突きはなすように押して、横山が立ちあがった。 「立てい」  肩で息をしながら、横山が言った。  照島が立ちあがってくる。  立ちあがった照島の鼻の穴から、のろり、と粘っこい血が流れ出てきた。  横山は、折れた肋《あばら》のあたりを押さえ、荒い呼吸を繰り返している。 「楽しいだろう、横山さん」  照島が言った。 「ああ」  横山が、うなずく。 「おれもだ」  照島が言う。 「しゃああっ」 「かあああっ」  ふたりの口から、気合がほとばしった。 (二十一)  それは、死闘であった。  力と力がぶつかりあう。  技と技がせめぎあう。  三〇分が過ぎていた。  それでも、まだ、ふたりの肉体は動き続けていた。  休みなしに、三〇分以上闘い続ける。  めったにあることではない。  技、体力もさることながら、それは、精神力の闘いに入ることを意味していた。  精神を支えるのは、体力である。  体力が萎えれば、精神も萎える。  精神が萎えれば、体力が萎える。  精神力と体力は不可分である。  分けられない。  その通りだ。  横山も、照島も、それは承知している。  しかし——  いよいよのいよいよ。  ぎりぎりのぎりぎり。  技で勝負がつかず、体力で勝負がつかない場所を通り過ぎた後は、消耗戦となる。  そこから先は、稽古の量が勝敗を分ける。  どれだけ、稽古をしたか。  どれだけ、同じ技を繰り返したか。  毎日毎日、何十回、何百回、何千回、何万回——  気が遠くなるほどの回数、稽古したか。  疲れた時に、それが出る。  比べあうものを全て比べあった後に、勝負を分けるのは、稽古の量である。  襤褸雑巾《ぼろぞうきん》のようになった肉体から、もう、しぼり出すものが、無くなった時、最後に残っているのが、稽古である。  まるで、山塊の中に染み込んだ水が、その麓から滲み出てくるように、稽古《それ》が地上に出てくるのである。  闘っている肉体は、それを実感する。  自分の肉体に。  そして、相手の肉体に。  自分の肉体が、これまで耐えてきたことに、相手の肉体も耐えてきたのだなとわかる。  闘う者どうしが、相手の肉体に敬意を表するのは、そういう時だ。闘う者どうしが、相手の耐えてきたものを尊敬するのはそういう時だ。  たいしたやつだな、きさま——  あんたもな——  肉体が、闘いながら、無言の会話をする。  やがて、そういう無言の会話もできなくなる。  次にやってくるのは、自分との会話だ。  独白。  独り言のような会話。  もういいか。  ここまでやったらもういいか。  ぶつぶつぶつ。  うつうつうつ。  もう、充分やったよな。  ぶつうつぶつ。  うつぶつうつ。  ふいに、畳の感触が、足の裏に鮮明になったりする。  朦朧となる。  夢を見ているような気になる。  自分はこの地上にいない。  意識が消える。  そこを通り過ぎて、はじめて、人と人は、才能を比べあうことになる。  そこまで行かなければ、才能を比べあうことができない。  肉体そのものを比べあうことができない。  天がその肉体に与えたものを、そこでようやく比べあうことができるのだ。  しかし、それでも決着がつかなかったら。  そこを通り過ぎてしまったら——  あとは、何を比べるのか。  不幸の量か。  どちらがどれだけ、不幸であるかを比べるのか。  そこも通り過ぎたらどうするのか。  次に比べるのは、才能ですらないもの。  人格。  品格。  思想。  個性。  そういうものの比べあいになってゆく。  それでも、そこでも決着がつかなかったら?  その最後のどんづまりで比べあうものがあるとしたら——  そこに、もう一度、精神が立っている。  重さで言えば、一グラムの一千分の一。  長さで言えば、一ミリの一千分の一。  一万分の一。  一億分の一。  眼に見えない、量ることのできないわずかな精神の量。  心。  心の重さを量るような量り方で、心の量を比べるような比べ方で。  肉体と精神は、闘いながら、そこまでたどりつく。  ふたりの額が、ぶつかっている。  まるで、倒れるのを互いに支えあっているかのように、横山と照島は、額をぶつけて、そこをこすり合わせている。 「はあ」 「ふう」 「はあ」 「ふう」  荒い呼吸が、互いの顔にかかっている。  ふたりの顎の先から、汗が滴り続けている。  ふたりの稽古衣は、ずくずくの襤褸雑巾《ぼろぞうきん》のようになっている。  ごじり、  ごじり、  と、こすり合わせているふたりの額の皮膚が破れ、そこから血が流れだしている。  横山の血に、照島の血が混ざり、横山の額を流れ落ちてゆく。  照島の血に、横山の血が混ざり、照島の額を流れ落ちてゆく。  交す力は、もう、ない。  交す言葉は、もう、ない。  語り尽くした。  充分か。  もう、充分なのか。  いいや、と応えるものがある。  まだだ。  まだ、残っているものがある。  それは、決着だ。  決着だけがついてない。  どちらの思考かわからない。  どちらの思いかわからない。  だが、どちらもそう思っている。  そう思っているからやめない。 (二十二)  その時——  横山の肉体に、不思議なことがおこっていた。  何かが、肉の底で動いたのだ。  ぬるり、  という感触。  自分の肉体が、丸ごと裏返ったような。  たとえていうなら、もう一度この世に生まれたような。  おそろしく、瑞々《みずみず》しいもの。  ぬれぬれとした、羊水にまみれた胎児のようなもの。  それまで、どこにあったのか。  これまで、そんなものが、この肉の中のどこに隠れていたのか。  それは、体力と呼んでいいものかもしれない。  精神力と、そう呼んでもいいものかもしれない。  それが、新生児のように、どこからか肉の中に吐き出されてきたのだ。  ふいに、それが膨れあがった。  ふつふつと、肉の中にそれが膨らんでくる。  耐えようとした。  思わずこらえようとしたが、こらえられないとわかった。  身をまかせるしかない力であった。 「おおうっ!!」  横山は、声をふり絞った。 「かああっ!!」  照島が応える。  全身に、それが漲《みなぎ》った。  もう、ちぎれてもいい。  全身の筋肉が。  この肉体が。  この意識が。  照島の身体にしがみつく。  技ではない。  そこにある巨大な岩を持ちあげる。  ありったけの力を使う。  照島が、こらえる。 「ぬわわわっ!!」  照島の身体を、天に向かって巨木をその根ごと持ちあげるように、ひっこぬく。  背から落とした。  だあん、  と、ふたりの肉体が畳の上に跳ねた。  照島が、横山の身体に、手足をからみつける。  腕を取りにゆく。  しかし、背から落とされた時に、大量に肺から空気を吐き出している。  酸素が足りなかった。  がっ、  と息を吐き、大きく息を吸い込もうと口を開けた。  その瞬間であった。  照島の右腕を、横山の両手が捕えていた。  横山が、仰向けになる。  腕拉《うでひし》ぎであった。  完全に極まっていた。 「ぐむうっ」  照島が、固形物のような呻き声をもらした。 「参った!?」  久富鉄太郎が、かがみ込んで照島に問う。 「まだまだ」  照島が、顔を苦痛に歪めながら、首を左右に振る。  さっき、肩を嵌めたばかりの右腕であった。  さらに、力がこもった。  みちみちっ、  ぐちぐちっ、  と、腕の中に不気味な音が鳴った。  照島の腕が、異様な角度に曲がった。 「一本!」  久富鉄太郎が、叫んだ。 「一本!」  もう一度叫んだ。  久富鉄太郎の手が、横山の肩を叩いた。  ふたりは動かない。  横山は、下から、眼を剥いて久富鉄太郎を睨んでいた。 「久富さん……」  横山は言った。 「手を、はずせんのじゃ。頼む……」  言われた途端に、久富は、横山の頬を、平手で激しく叩いた。  久富が、横山の腕を押さえ、一本ずつ、横山の指を照島の腕からはずしてゆく。  ようやく離れていた。  横山も、照島も、畳の上に仰向けになったまま動けなかった。  まず、横山が上体を起こした。  傍《かたわら》に、照島が仰向けになっていた。 「おい、横山……」  荒い呼吸の中から、照島が声をかけてきた。 「なんだ」 「こんど、一杯やらんか」  照島の唇が、笑った。 「おう、やろう」  横山は、低い声で答えていた。 (二十三)  好地円太郎と、保科四郎が向かいあった時、観客の間に弛緩したような空気が生まれた。  ふたりの体格が、違いすぎたからだ。  好地円太郎は、丈《たけ》、五尺九寸五分。  一八〇センチに余る長身であり、みっしりと肉が付いている。  体重は、二十五貫——九〇キロはありそうであった。  保科四郎は、丈、五尺五分。  約一五三センチ。  体重は、十四貫——五十三キロである。  体格が、違いすぎた。  今日《こんにち》のように、試合が体重別で行なわれているわけではない。  大兵《だいひょう》と小兵《こひょう》が、闘うこともある。  身体の大きな者が有利なのは言うまでもないが、しかし体格において劣る者が、研鑽によって、体格において勝る者に勝つことができる——それが柔術であるとの考え方が、まだ一般的であった。  それにしても、ある程度、実戦を経験した者であれば、身体が小さいことが、どれだけ不利であるかは、誰もが経験値でわかっている。  柔術を知らぬ者を、柔術を知っている者が相手にするのではない。相手が、柔術を知らなければ、むこうが相撲取りであれ、異国人であれ、身体の小さい者が、身体の大きな者に勝つことはできる。  しかし、この場合は、どちらも柔術家であった。  一方が、まだ生まれたばかりの新柔術、嘉納流である。  一方が、古い歴史を持つ、揚心流の戸塚派だ。  たしかに、保科四郎の噂は、皆の耳に届いている。  講道館に、小兵ながら、技の切れる保科という男がいる——  しかし、実際にその姿を見た時の印象は、  ——小さすぎる。  誰もがそう思った。  これほど体格差があったら、勝負にならぬであろう。  誰が、この試合を組んだのか。  そういう空気の中で、 「始めいっ!」  久富鉄太郎の声が響いたのである。 (二十四)  四郎は、動かなかった。  動いたのは、好地である。  両手を伸ばし、ずいずい、と、巨体を揺らしながら前に出てきた。  その左手が、四郎に伸びる。  その指が、四郎の襟に触れた。  その時——  四郎が、右手で軽く好地の左手に触れた。  次の瞬間、好地の身体が、ふっ飛んでいた。  頭から畳の上に突っ込み、転がったのである。  四郎は、倒れた好地の方に向きなおった。  倒れた好地に、被さってゆかない。 「まだまだ——」  久富鉄太郎が、低い声で言う。  好地円太郎が、むくり、むくりと起きあがってきた。  右手で、頭を掻いた。  ——おかしい。  どうして、自分が投げられたのか。  その術理がよく理解できないらしい。  好地が、また、前に出てくる。  また、好地の身体が、もんどりうって、頭から畳の上に転がった。  今度は、四郎は、手も触れなかった。  好地が、稽古衣の襟をつかんだ時、軽くその身をゆすっただけであった。  それだけで、好地は投げられていたのである。  神技《しんぎ》の如き技であった。  会場に、どよめきの声があがっていた。  保科四郎の、思いがけない強さに、いずれも驚いているのである。 「ふうん……」  好地は、また頭を掻き、立ちあがった。  そこで、動きを止めた。  立ったまま、四郎を見つめている。  四郎も動かない。  好地も動かない。  しばらく見合った。  流れとしては、今度は、四郎が動く番である。  しかし、四郎は動かない。  好地は、また、頭を掻いた。  好地が、また動いた。  一歩、二歩、ゆっくりと四郎に歩み寄ってきた。  もう、手を伸ばせば届く距離まできて、そこで足を止めた。  見合った。  もう、好地は重心を動かさない。  ただ、手を伸ばしてきた。  この時、初めて、四郎が動いていた。  四郎の身体が、好地の懐に、自ら飛び込んでいたのである。  相手の奥襟を掴んでいた。  好地の身体の下に、小さな四郎の身体が潜り込んでいた。  四郎の腰が、好地の下腹に密着していた。  密着した時には、もう、好地の身体を宙に浮かせている。  四郎の蛸足が、好地の左脚の臑《すね》を掴んでいた。  好地の左足が、高く跳ねあげられていた。  頭から、まっ逆さまに、好地の身体が畳に向かって落ちていた。  好地が、宙で身体をひねった。  左肩から、好地は畳に落ちていた。  会場が、どよめいた。 「山嵐じゃ」  そういう声が、あがった。  むくり、むくりと、好地が起きあがってきた。  その、好地の首に近い胸の上部の肉が、異様なかたちに盛りあがっていた。  鎖骨だ。  左肩から落ちた時、好地の左の鎖骨が折れたのか、はずれたのか。  それが、肉を下から持ちあげているのである。  好地は、右手で、そこを撫でまわし、 「ふん」  右拳でそこを叩いた。  肉を持ちあげていた鎖骨が、もとにもどっていた。  四郎は、無言で、それを見ていた。 「先生……」  好地が、小さくつぶやいた。 「おれ、やりますから。おれ、やっちゃいますから……」  好地はつぶやき、両手を高く持ちあげた。 「あひゃあっ」  好地は、叫んだ。 (二十五)  父の名は、好地城太郎——  武士であった。  小普請《こぶしん》組だ。  維新で、禄を失ない、野菜を売った。  農家から、野菜を買いつけ、それを売ったのである。  神田に、小さい店を構えた。  八百屋だ。  うまくいかなかった。  客が、まけろと言えば安く売り、金が無いと言えば、支払いは次でよいと、ただで野菜を渡した。その金を、取りたてるということをしなかった。  妻の幾《いく》が、泣いて責めても、 「さようなことができるか」  金を取りたてるということができなかった。  貧乏であった。  円太郎は、子供の頃から、身体が大きかった。  慶応二年の生まれだ。  明治元年の時に三歳、保科四郎と歳が同じであった。  身体が大きい分、飯も食った。  いくらでも食えた。しかし、腹いっぱい食うことはめったになく、いつもひょろりと痩せていた。  餓鬼のようであった。  六歳の時に病で母親の幾が死に、その翌年に父の城太郎も病で死んだ。半分は栄養失調が原因であった。  七歳の時に、千葉にある母方の親類の家に引き取られた。  八歳の時には、もう、普通の大人ほどの大きさになった。  眠るたびに、みしり、みしりと骨が音をたてて大きくなってゆくのがわかった。九歳の時には、眠るまえには通ることができた戸口の上の部分に、翌朝くぐる時に額をぶつけていた。  学校に行っても、遊び相手はいなかった。  いつも、ひとりで過ごした。  痛みに対して、鈍感であった。  ある時、同じ学級の源二郎というのが仲間とやってきて、訊ねた。 「おまえ、石に頭をぶつけても痛くないんだって?」 「うん」  円太郎は答えた。  その途端に、ごつんと額に何かがぶつけられた。  石であった。  源二郎が、握っていた石を投げたのである。 「痛くない」  と、円太郎は言った。  足元に落ちている大きい石を拾って、その石で自分の額を叩いた。  何度も、何度も——  額が破れて、血が流れ出した。 「痛くない」  口まで流れてきた血を、円太郎は舐めた。 「わっ」  と叫んで、源二郎が逃げた。  次にやってきた時、源二郎は、握り飯を持っていた。  前よりも、連れてきた仲間の数が多かった。  校舎の裏だ。 「また、あれをやってみろよ」  源二郎は言った。 「あれって?」 「石で、頭を叩いて、血出してみな」  源二郎が、握り飯を差し出した。 「そしたら、これをやるよ。腹すかせてるんだろう」 「うん」  前より大きな石を拾って、自分の額を叩いた。  この前より大きな音がするように、力をさらにこめた。  がつん、  と、凄い音がして、頭がくらくらしたが、二度、三度と石で額を打った。 「な、ほんとうだろう」  源二郎が、仲間たちに言っている声が聴こえた。  血が流れ出した。  額の血を、握り飯を持った手でぬぐいながら、握り飯を喰った。血の味がした。  九歳の時だ。  何度か、そういう遊びをした。  その度に、握り飯をもらった。  馬鹿にされているのだとは、思わなかった。  みんなが、自分と遊んでくれているのだと思った。  握り飯を食えるのが嬉しかったし、人が、自分の額を石で叩いて血を流すのを見て喜んでいるらしいのがわかって、それも少し嬉しかった。  しかし、石で額を叩いて、痛くないということはなかった。  人より鈍いのかもしれないが、血が出るほど、額を石で叩けば痛い。その痛みは、我慢した。痛いと言えば、みんなががっかりすると思ったからだ。  父も、唯一の味方であった母も、いない。  親類の家では、飯をたくさん食べる円太郎は疎まれた。  いつも、独りぼっちだった。  だから、人が集まってくるのが嬉しかった。  ある時、いつものように血を流したあと、もらった握り飯を食べたら、おかしな味がした。  源二郎が、笑っていた。  みんなも笑っている。  しかたなく円太郎も笑った。 「な、ほんとに食ったろう。こいつ、頭も鈍いんだ」  源二郎が言うと、皆が笑った。  食いかけの握り飯を見ると、中に何か入っていた。  馬糞《ばふん》であった。 「食った、食った」 「円太郎が、まぐそを食った」  そこで、円太郎は初めて、自分が皆に馬鹿にされていることがわかったのである。  自分の腹の中で、何かが音をたてて煮えた。  哀しみのようなものであった。  怒りのようなものであった。  何だかよくわからないものだ。  くやしいような、泣きたいような——なんだか得体の知れないものだ。  これまで、ずっと、気づかぬうちに我慢してきたもの。それが、肉の底から湧き出てきたのだ。 「あ、泣いてる」  源二郎が言った。 「円太郎が泣いてら」  円太郎が、耳にしたのは、そこまでだった。  血の温度があがって、その後、自分が何をしたのか、よくわからなかった。  いきなり、源二郎を捕え、その頭を両手で掴んだ。  ごつん、  と、その顔に自分の額をぶつけた。  それまで、石でやっていたことを、源二郎の顔でやったのだ。  一度、二度、三度——  それで、もう、源二郎は動かなくなった。  次に近くにいるやつを捕まえて、同じことをした。  すぐに、そいつも動かなくなった。  三人目は、もういない。皆、逃げ出してしまったのだ。  円太郎は、落ちていた食べかけの握り飯を拾い、馬糞の付いているところを捨て、砂をていねいにとって、食べた。  まだ、口を動かしているところへ、教師がやってきたのである。  握り飯を持っていってやったら、いきなり円太郎が怒って暴れ出した——そういうことになった。  円太郎は、口下手であった。  言いわけができなかった。  子供たちが、口裏を合わせたのである。  源二郎と、もうひとりの子供の前歯は、全て折れていた。  家では、こっぴどく叱られた。  三日間、飯を食わせてもらえなかった。  また、独りになった。  もう、円太郎を相手にする者はいない。  教師からも、見放された。  うまくしゃべれないから、授業中も放っておかれるようになった。  噂を聴いて、他校の生徒が、時おり喧嘩にやってくるが、そのことごとくを、円太郎は徹底的にやっつけた。 「もうやめて——」  泣いている他校の上級生の顔を踏みつけた。 「一本」 「二本」  やっつけた相手の口の中に指を突っ込んで、歯を折ってやるのが好きになった。  十一歳になった時には、誰も円太郎の相手をするものはいなくなっていたのである。  その十一歳の時——  親類の家の主人に連れられて行ったのが、揚心流戸塚派の戸塚道場であったのである。  道場主である戸塚英俊一心斎と、道場で向きあった。  ふたりきりにされた。  板の上に、直接正座をした。  一心斎は、身体の小さな男だった。  この時、六十四歳——まだ壮健であった。  白髪の交じる髪、髯《ひげ》——  円太郎よりも、ふたまわりは小さく見えた。  この時、すでに円太郎は丈だけなら五尺八寸もあった。  黙っていた。  好きで来たのではない。  無理やりというわけでもない。 「来い」  と、そう言われて、親類の者と一緒にやってきただけだ。  どこへゆくとも、何のためにゆくとも聴かされていなかった。来てみて、ようやくそこが、柔術の道場であると知ったのである。  あらかじめ、話は通っていたのであろう。 「よろしくお願い申しあげます」  そう言って、親類の者が座をはずすと、ふたりきりになってしまっただけのことだ。  この�お願い�が、何のことかは想像がつく。  自分は、親類の家を追い出されたのだと思った。  一心斎も、黙っている。  黙っていることは、苦痛ではない。  いくらでも黙っていることができる。  だから、黙っていた。  一心斎が、自分を見つめている。  黙っているのは辛くはなかったが、その視線と眼を合わすのは嫌であった。だから、眼をそらせていた。一心斎を見ずに黙っていた。しかし、一心斎がこちらを見つめているのは、わかっていた。  それが気になって、時おり一心斎に視線を向けた。すると、こちらを見ている一心斎と眼が合う。また、眼をそらす。  そうしているうちに、黙っていることが、だんだんと苦痛になってきた。  自分は、どうしてここにいるのか。  いつまでこうしていなくてはならないのか。  この一心斎という道場主は、自分をいったいどうしようというのか——そういうことがわからない。  と——  何度目かに一心斎を見た時に、それまでと変化が起こっていることに気がついた。  身体の変化ではない。  座した姿は、これまでと同じであった。  沈黙していることも、その顔に浮かべた表情も同じであった。  違っていたのは、眸《め》であった。  その眸に、溢れ出してくるものがあったのである。  ほろりと、一心斎の眸から涙がこぼれ落ちた。  一心斎は、円太郎を見ながら泣いていたのである。  どきり、とした。  何故か。  何故、この老人は、自分を見て涙を流すのか。  急に、そこにいたたまれなくなった。  どうしていいか、わからなくなった。  その時—— 「おい……」  低い、声が聴こえた。 「今日から、わしがそなたの父じゃ……」  優しい声であった。  その声を聴いた時に、円太郎にはわかった。  みんな、知られてしまったのだ。  何故なのか、どうしてなのかはわからないが、今、みんな見られてしまったのだ。  わかってしまったのだ。  親類の者が、どこまで、どう、自分のことをこの一心斎に説明したのかはわからない。いや、そんな説明は、関係がない。今、ここで、この老人に見られている間に、みんなわかってしまったのだと思った。  円太郎の眼からも、ふいに、熱いものが溢れてきた。  それは、涙であった。  母が死んだ時にも、泣かなかった。  父が死んだ時にも、泣かなかった。  その分の涙が、今、こぼれてきたのである。 (二十六)  どん、  と、背中から畳の上に落とされていた。  また、投げられたのだ。  起きあがる。  すぐ向こうに、保科四郎が立っている。  小さい漢《おとこ》だった。  あの、一心斎よりも小さい。  一心斎にも、よく投げられた。 「来い」  そう言われて向かってゆくと、自分の身体を、たやすく宙に舞わされた。  戸塚道場に預けられてから、飯だけは腹いっぱい食わせてもらえるようになった。  丈だけであったところへ、それで肉がついた。  そして、どんどん丈も大きくなり、十六歳になった時には、五尺九寸を越えていた。  その巨体を、一心斎には何度も宙に飛ばされたのである。  投げられ、締められ、極《き》められた。 「円太郎、これはどうじゃ」  投げられる。 「円太郎、これは効くであろう」  頸を締められる。 「円太郎、右腕が留守じゃ」  右腕を極められた。  一心斎に投げられ、締められ、極められて技を覚えたのである。  だから、自分が覚えた技は、いずれも一心斎である。自分にとっては、一心斎そのものであるといっていい。自分の肉体には、一心斎が染み込んでいる。  花見にも行った。 「円太郎、桜がみごとじゃのう」  酒も一心斎に教わった。 「酒くらい飲めねばならぬ」  そう言っていたのが、円太郎が底無しの酒飲みで、酒癖が悪いのを知ると—— 「おまえは、もそっと酒を控えねばならぬな——」  小言も言うようになった。  十八歳になる頃には、もう、一心斎には投げられなくなった。  締められなくなり、極められなくなった。  自分が強くなったのか、一心斎が弱くなったのか。  ある時、わざと投げられた。  と——  その瞬間に、一心斎は稽古を止めた。  道場から、いなくなったのである。  翌日、現われた一心斎は、皆を集め、 「今日より、道場主は息子の英美じゃ」  そう宣言をした。  円太郎が、慌てて一心斎に駆け寄ると、 「何も言わんでよい」  そう制されてしまった。  その日から、一心斎は、ふいに老いた。  老いて、好々爺《こうこうや》となった。  それでも、日々、稽古は欠かさずにやった。  ある時、円太郎は、一心斎に呼ばれたことがある。  二〇歳になった時であった。 「おまえの性根《しょうね》には、どこか酷《こく》なところがある……」  つぶやくように言った。 「わしが見るところ、それは、もう治るまい——」  それは、自分もわかっている。  特に、酒を飲んだり、気が激したりした時に、それが強くなる。 「しかし、その性根の性根、おまえの本然《ほんねん》はまた違う。おまえは、心の優しい子じゃ。それは、このおれが、一番ようわかっておる。よいか、円太郎。人が真に己《おのれ》を世に理解さるるは稀じゃ。ぬしの真の性根を本当に理解してくれるものがあるかどうかはわからぬ。しかし、そのこと、このわしは、ようわかっておる。それを、おまえに言うておきたかった……」 「———」 「おまえは、いつか、あるいはその性《たち》により、人を殺《あや》めるようなことのあるかもしれぬ男じゃ。いつか、世の全てが、おまえの敵となるような日も、あるやもしれぬ。その時、このわしだけは、このおれだけは、ぬしの味方をしてやろうと、そう思うてきた。しかし、そういつまでも、このわしが生きてもおれまい。だから、今、言うておく。おまえは、真に、性根の優しい子じゃ……」  その言葉が、たったひとつの灯《ともしび》の如くに、生涯円太郎の心に点った。  それから、ほぼ一年後、今年の四月に、一心斎はこの世を去ったのである。 (二十七)  また、投げられた。  今度は、右肩から落とされた。  むくり、と円太郎が起きあがってくる。  疲れはない。  呼吸も乱れてはいない。  しかし、痛かった。  肉の痛みではない。  心の痛みだ。  投げられる度に、心が痛む。  それは、自分が投げられたからではないようであった。  それが何であるか、すぐには円太郎にはわからなかった。  投げられているうちに、それがわかった。  心だ。  心が痛いのである。  自分の中に染み込んでいるどの技も、どういう術も、師であった戸塚一心斎が教えてくれたものだ。  自分の肉体に、一心斎が住んでいる。  だから、自分が投げられるというのは、それは好地円太郎が投げられているのではない。戸塚一心斎が投げられているのである。  一心斎が、今、この保科四郎に投げられたのだ。  だから、痛いのだ。  凄い漢だった。  自分は、鈍《どん》である。  相手の保科四郎は、秀《しゅう》である。  もって生まれた何ものかが違うのである。  それは、闘ってみて、よくわかる。  何故、投げられるのか、それがよくわからないほどだ。 「先生……」  円太郎は、つぶやいた。  何が何であろうと、負けるわけにはいかない。  自分が負けることは、師の一心斎が負けることだからだ。  自分は、どうなろうと構わない。  ただ、一心斎を負けさせるわけにはいかない。 �今日から、わしがそなたの父じゃ……�  その言葉が、胸の奥に残っている。  このまま、何もできずにやられっ放しでよいのか。  くやしかった。  涙が出てきた。  思わず、声が出た。 「おおん……」  円太郎は、泣いた。  おおん……  おおん……  円太郎の眼から、涙が溢れていた。  円太郎は、泣きながら、闘っていた。  何故、投げられてしまうのか、円太郎にはわからない。  戸塚道場では、誰を相手にしても、めったなことでは投げられなくなった。  自分を投げようとする時、相手の身体に変化が起こる。その相手の肉の動きが、わかるのである。相手が、自分を投げようとするその寸前に、相手の身体に、自分の身体の重さを、そのまま預けてしまう。  すると、逆に、相手が、自分の身体の下で潰れてしまうのだ。  潰れた相手の腕を握り、力まかせにねじる。  あるいは首を締める。  それで、たいがいの者には勝てる。  それができない相手もいる。  そういう相手の時は、腕や手首を掴んでから、別のところを苛《いじ》めてやる。顔の上に腹を乗せたり、腹を膝で突いてやったり、肘で顔をこじってやったり、方法はいくらでもある。  それをしつこくやり続ける。  そうすると、掴んでいる相手の手が、ほんの少し、油断をする。その隙に、力まかせにねじる。  やる時は、おもいきり、全身の力を込めて相手の腕を曲げてやる。  それで、勝負がつくことも多かった。  潰されない相手は、抱きついて上に持ちあげてやる。  上に持ちあげてやった途端に、相手はただのもの[#「もの」に傍点]と化す。  その相手を、地面でも床でもいい、そこに叩き落とす。投げるのではない。叩きつけるのだ。叩き落とした時には、もう、相手の上に被さっている。  あとは同じだ。  それが、この小さな男に対してできないのだ。  触れた時には、転がされてしまうからだ。  頬が濡れている。  汗か。  涙か。  あれ!?  自分はもしかしたら、泣いているのか。  泣きながらでもいい。  この男に勝たなくてはならない。  どうすれば、勝てるのか。  どうすれば、投げられずにすむのか。  必死で考える。  どうする。  どうすればいい。  頭の中身が、焦げつきそうだ。  脳だっけ——頭の中にある、あのぐにゃぐにゃしたやつ、あれがとろけて、鼻や耳から流れ出てきそうだった。  自分にできることは、痛みを耐えることだ。痛みを感じないことだ。いや、正確には違うな。  正直に言えば、他人より痛みの感覚が鈍いというのはあるかもしれない。しかし、痛みは感ずるのだ。それを感じないふりをしているだけなのだ。痛みを感じないふりをしているうちに、その痛みに身体が慣れてしまう。  この痛みは、自分の身体の痛みではないと思う。  痛みがあっても、その痛みが自分の身体の痛みでなければいいのだ。  だから、痛みを、他人の痛みのように見つめることができればいい。  自分は、それができる。  ああ、ややこしいことはいい。  とにかく、自分は、痛みに耐えることができる。  それは、誰よりも、この小さな男よりも自分が勝っている。  あれ!?  どうしたのだ。  さっきまで、あれほど投げられていたのに、どうして、まだ投げられていないのだ。  何があったのだ?  あれ!?  あれ!?  考えろ、考えろ。  あ。  何だっけ。  さっきまでと違うことがある。  そうだ。  それは、自分が動かなかったことだ。  どうすればこの男に勝てるのか、それを考えている間、おれは動かなかった。  あ、そうか。 �岩になれ、円太郎�  そう一心斎が言ったことがある。 �おまえのような身体の大きな男は、岩になればよい。それだけで投げられぬ� �わからねえぞ、一心斎�  自分は、一心斎が何を言っているのかわからなかった。 �おまえの目方はどのくらいじゃ。三〇貫か、三十三貫か。おまえの大きさで、そのくらいの岩が、そこにごろりところがって動かずにおったとして、それを、誰《たれ》が投げることができる�  難しいことを言った。 �投げられたり、転げたりするのは、動く岩じゃ�  ああ、そうか。  あの時はよう意味がわからんかったが、もしかしたら、今、自分はあの一心斎の言っていた岩になっていたのか。  よし。  動くのはやめじゃ。  円太郎は、そこに突っ立って、本当に動かなくなった。  保科四郎が、横に回っても、後ろに回っても、阿呆のように動かない。  と——  斜め右後方から、保科四郎が、稽古衣を掴んできた。  来たな。  円太郎は、右手で四郎の奥襟を掴み、真上にひっこぬいた。  右腕の力だけで、軽々と四郎の身体が持ちあげられる。  一番上まで、持ちあげられるだけ持ちあげて、おもいきり畳に叩きつける。  余計なことはしない。  叩きつけるのが遅くなるからだ。  右腕一本でそれをやった。  どうだ!?  円太郎は、上から四郎に被さろうとしたが、それができなかった。  くるりと四郎の身体が回って、両足で畳の上に落ち、さらに両手を添えて、衝撃を殺し、畳の上に立っていたからである。  被さろうとしているところへ、下から四郎の手が伸びてきて、伸ばした右腕の袖を掴まれていた。  蟹のように、四郎の身体が、円太郎の身体の下に這い込んできて——  投げられていた。  凄い。  畳の上に、仰向けに転がされながら、円太郎は思った。  この漢《おとこ》、凄い。  本当に凄い。  ふいに、何か、得体の知れぬものが、円太郎の肉の裡《うち》からこみあげてきた。  この漢、本気なのだ。  この自分を、本気で倒しにきているのだ。  この自分を、馬鹿にしていない。  怯えてもいない。  厄介にも思っていない。  憎んでもいない。  この保科四郎という漢は、自分の持っているありったけを使って、このおれを倒そうとしている。  こんな人間が、これまでにいたか。  本気だから、寝技に入ろうとしないのだ。  このおれの寝技を認めているのだ。  それが、ふいに、わかった。  この漢だって、色々あったろう。  こんなちっこい身体で、ここまで強くなるには、並たいていの修行ではなかったはずだ。  いくら天分があったって、修行の日々がなければ、その天分は開かない。  このちっこい漢は、これまで、どれだけのことを我慢してきたのだろう。どれだけのことに耐えてきたのだろう。  それが、何であるかはわからない。  わからないが、しかし、わかる。  この漢もまた、自分と同じなのだ。  おれのように、馬鹿にされたか?  親や、兄弟はいるのか。  細かいことはいい。  そんなことは、わからなくたって、わかる。  むくりと、円太郎は起きあがる。  立ちあがると、もう、四郎が立ってこちらを見ている。  四郎が、愛しかった。  円太郎の裡から、一心斎が消えていた。  あれほど痛みを訴えていた一心斎が、肉の中にいない。一心斎がいなくなった。  一心斎から、ふいに、肉体が自由になった。  今、起きあがった時に、自分が生まれかわってしまったようであった。  もう、円太郎は泣いていなかった。  円太郎は、笑っていた。  殺そう——そう思った。  この漢を、本気で殺してやろう。  それが、自分の本気であった。  これまで、自分が学んできたこと。  技。  心。  哀しみ。  馬鹿にされたこと。  それらの全ては、今日の、この日のためにあったのだ。  そう思う。  それがわかる。  わかってみれば、これまでの過去の全てのことは、無駄ではなかったのだ。  この漢を殺すという、ただ、それだけのために、これまでの過去の全てがあったのだ。  一心斎の死も—— 「うん」  円太郎は、うなずいた。  うん。  うん。  もう、一心斎はいない。  もう、自分だ。  自分だけ。  前に出てゆく。  組む。  組んだ瞬間に、投げられた。  もう、驚かない。  投げられるとわかっていたからだ。  投げられながら、前に跳んだ。  自ら投げられにいったのだ。  四郎の稽古着を掴んでいた。  掴んだまま、投げられ、そのまま四郎の身体を寝技に持ち込んでいた。  なんだ、寝技に入るのなんて、こんなに簡単なことだったのだ。  保科四郎の身体が、初めて、畳の上を転がった。  寝技に入られまいとして、四郎の身体がさらに転げながら逃げようとする。  逃がさない。  円太郎は、畳に手をつき、上体を起こし、立ちあがるかわりに、転がって距離を取ろうとする四郎に向かって跳んだ。  上から、岩のように円太郎の巨体が落ちてゆく。  ごりっ、  と、右膝の下で音がした。  落とした右膝の下に、四郎の右足首があった。  めきっ、  とも、  ごきり、  ともその音は聴こえた。  やった。  保科四郎の、右足の骨だか関節だかしらないが、それが、今、いった[#「いった」に傍点]のだ。  上に、被さる。  落ちつけ。  あわてるな。  これからだ。  ゆっくり、呼吸をしようと思った。  できなかった。  息が荒くなっている。  休めなかった。  身体の下から、四郎が動きながら抜け出してゆく。  なんでこんなに元気なのか。  右足の骨がいった[#「いった」に傍点]んじゃなかったのか。  下から、左腕を取られた。  なんと、下から腕がらみを掛けてきたのか。  それから、逃げる。  逃げた途端に、今度は右の腕をねらわれた。  誰だ!?  講道館は、寝技ができないなんて言ったやつは。  この保科四郎は、下から関節を取りに来てるじゃないか。  逃げる。  呼吸が、さっきより荒くなっている。  四郎の胸に向かって、右肘をおもいきり落とす。  めきっ、  と、音が肘の骨に伝わってくる。  四郎の肋《あばら》が折れたのだとわかる。  さっき、自分は、鎖骨をやられている。  これで、五分と五分だ。  しかし、四郎は、顔色も表情も変えない。  見ている者には、四郎の肋骨《ろっこつ》が折れたことなどわからないだろう。  しかし、この自分は、それを知っている。  そして、この四郎も、それを知っている。  この世の中で、ただふたりだけだ。  次は、顔だ。  四郎の顔に、左肘を落とす。  浅い。  それでも当った。  鼻の上だ。  鼻が潰れて、血が流れ出す。  これで、呼吸がしにくくなる。  今度は、拳だ。  また当る。  もう一度——  やろうとした途端に、つるりと、四郎の身体が抜け出した。  拳が、畳を打った。  しまった。  逃げてゆく四郎の、右足を掴む。  足首を掴み、爪先を掴み、ごじりとねじる。  さっきの駄目押しだ。  念入りにやってやった。  その隙に、四郎が、下から十文字に腕を交差させて、襟を取りにきた。右手で右襟を、左手で左襟を。  刃物で斬りつけてくるような締め技だった。  すぱっ、と入った。  締まる。  頸動脈が止められた。  このままでは、落ちる。  膝立ちになり、右拳と、左拳で、四郎の胸を叩く。  また、肋を折ってやった。  それでも、四郎は締めを解かない。  顔が、膨れあがった。  舌が、唇から食み出てくる。  危ない。  落ちる。  立ちあがった。  四郎の身体が、ぶら下がる。  まだ、放さない。  四郎の顔面を、上から、厚い掌で叩《はた》く。  やっと四郎が落ちた。  咳が出た。  咳をしながら、落ちた四郎に被さってゆく。  宙に飛ばされた。  肩から畳の上に転がされた。  さっきと同じことが起こったのだ。  起きあがり、四郎を見る。  四郎は、立ってはいなかった。  寝てもいなかった。  膝立ちになって、両手を自分の腿の上に置いて、円太郎を見ていた。  なんだ。  ほとんど座したようなあのかたちから、さっきと同様の投げを放ってきたというのか、この漢は。  四郎の肩が、上下している。  その左の瞼が紫色に膨らんで、眼が半分塞がっている。  四郎の鼻が、横に曲がっていた。  その鼻から、血が筋をひいて、開いた唇を通って、口の中、顎にまで流れ下っている。血は、顎からさらに頸筋を通って、襟の中に這い込んでいった。  もう、四郎は鼻で息をしていなかった。  口で息をしている。  しかし、四郎の眸《め》が、真っ直ぐに円太郎を見ている。まだ死んでない、生きた眸だ。  何だ、これは——  まだ、その状態で闘おうというのか。 「まだまだ」  久富鉄太郎が言う。  ならば、迷うことはない。  相手が正座してようと、寝ていようと、自分は闘うだけだ。  さっきより、四郎は小さくなっている。  組みには行けない。  しかし、蹴りごろの高さに顔がある。  その顔を、右足で蹴りにゆく。  当らなかった。  四郎が、小さく顔をのけぞらせるようにして、蹴りを躱《かわ》したのである。  畳の上から跳ねあがってきた蹴りだ。  中足《ちゅうそく》が当たれば、顎の骨が砕けていたことであろう。  もう一度、蹴りを出す。  ぱん、  と掌を当てられた。  それで、足が上へ逃がされた。  身体が泳いだ。  そのまま、投げられていた。  円太郎は、起きあがる。  信じられなかった。  こんな、膝立ちか正座に近い座り方で、まだ、あれができるのか。 「御式内《おしきうち》じゃ!」  声が飛んできた。  大竹森吉の声であった。  その声が響いた途端、試合場にどよめきが起こった。  何だ!?  円太郎は思う。  今、試合場にいる、主だった流派の錚々たる顔ぶれが、このような声をあげるとは? �おしきうち?�  なんだ、それは—— 「気をつけよ、御式内をあなどるな」  また、大竹の声が響いた。  御式内——  それは、これか。  今、この保科四郎という漢が、自分に掛けてきている技が御式内というのか。  いつか、これを見たような気もする。  五年前か、四年前か——いつでもいい。  今は、それを考えている時ではない。  円太郎は、組みにゆこうとした。  しかし、相手が、低すぎる。  ただでさえ小さい上に、座したことでさらに小さくなっている。  組みにゆくその時、すでに重心を不安定にせざるを得ない。  組んだその時点で、もう、半分崩しがかかっていることになる。  かといって、蹴りにゆくのでは、さっきと同じことになる。  立ったまま、動けない。  保科四郎と、好地円太郎は、一方が座し、一方が立ったまま、そこで睨みあった。  と——  保科四郎が動いた。  膝行《しっこう》だ。  膝で畳を擦りながら、近づいてきたのである。  思わず、円太郎は退がっていた。  そこへ、すっ、すっ、と四郎が膝行してくる。  また、円太郎が退がる。  試合場に、どよめきが起こった。  大漢《たいかん》の好地円太郎が、小兵の保科四郎が膝行するのに、押されて退がっているからである。  円太郎の額から、汗が浮いた。  どうすればよいのか。  わからない。 「くわっ」  円太郎が、喉の奥から搾り出すような声をあげた。  また、試合場がざわめいた。  円太郎が、声をあげながら、畳の上に座り込んだからであった。  四郎のように、膝で座したのとは違う。  べったりと、畳の上に尻を落とし、後方に両手を突いて、足を四郎の方に向けていた。  円太郎が、足から四郎の方に向かってゆく。  足の先が、四郎に届きそうになる寸前——四郎が、すっと後方に退がった。  再び、四郎と円太郎の間には、さきほどと同じ距離が生まれていた。  また、円太郎が四郎に向かってゆくと、また四郎が退がる。結果として、距離は縮まらない。  しばらく前に、四郎と近悳《ちかのり》が、日光で闘った時に生じたのと同じかたちであった。  この時、四郎は正座をし、 �まいりました�  頭を下げた。  しかし、この場はその時とは違う。  円太郎にはそれはできないし、そういうことを思いつきもしなかった。 「しゃああ」  円太郎は、さらに速度をあげ、足から四郎に向かっていった。  全力で前に出れば、後方へ退がる方が遅いはずだ。  円太郎がその手に出た瞬間、それに合わせるかのように、四郎が退がるのをやめた。逆に前に出てきた。 「へやっ」  円太郎は、右膝を折り、折った膝をいっきに伸ばした。右足で、四郎の顔面を蹴りにいったのである。  顔面に向かって突き出されてきた円太郎の右足を、四郎は左肘で外側へ流しながら、さらに前に出てきた。  円太郎の両脚の間に、四郎の身体が入り込んできた。  両膝を引いて合わせ、円太郎は四郎の侵入を防ぐ。  と——  合わせた円太郎の膝の上を、するりと四郎の身体が越えてきた。  いくら相手の身体が小さくとも、上に乗られたら、不利になる。 「えしゃあっ」  円太郎は、膝から先の両足を跳ねあげて、四郎の身体を宙に浮かせた。  四郎は、身体を宙でねじり、円太郎の右側に膝を突いて、円太郎の上に被さってきた。  今日の柔道で言う、横四方のかたちである。  円太郎が、身体をよじって逃げる。  その右側頭部に、横からぶつかってきたものがあった。  四郎の左膝だ。  みしり、  と、円太郎の頭蓋が軋む。  二撃目が来る前に、右手で頭部をかばいながら、さらに円太郎は身をよじって逃げた。  その右手を掴まれていた。  四郎が、仰向けになる。  腕拉ぎだ。 「くわあっ」  腕が伸びきる前に、円太郎は上体を起こしながら、右腕を、四郎の身体ごと持ちあげた。  四郎が小兵だからこそできることではあったが、それにしても、円太郎の腕力は並みはずれている。  円太郎は、四郎の身体を下にして、あらためて上から被さろうとした。  四郎が、逃げた。  転がって、また、両膝を畳に突いて、御式内の構えとなった。  円太郎は、四郎を見た。 「かああっ」  立ちあがりかけていた円太郎は、声をあげて腰を落とし、四郎と同じ姿勢をとった。  両膝を畳に突き、腰を浅く浮かせ、両足の中足《ちゅうそく》部分を畳につけたのである。  会場が、ざわめいた。  円太郎もまた、御式内をやるのか!?  御式内は、名ばかりが伝わっている、ほとんど幻の流儀であった。名を知る者はあっても、それを眼の前で見た者は、柔術界の錚々たる人間たちがこれだけ集まっている中でも、いない。  ただ、殿中で使われる技——基本的には座したかたちで闘われるということが、かろうじてわかっているだけだ。  四郎が膝行《しっこう》した時、それをすかさず、御式内であると喝破した大竹森吉も凄いが、その大竹にしても、御式内の何たるかを正確に理解しているわけではない。  四郎の出身が会津とわかっていたからこそ、御式内と結びつけることができたのであろう。  円太郎は、四郎を見やった。  四郎の表情に、変化はない。  とまどっても困っているようにも見えなかった。いや、本当はとまどい、困っているのだが、それを顔に出していないだけなのかもしれない。  しかし——  とまどいの表情を浮かべたのは、円太郎の方であった。  四郎と同じかたちをとってはみたものの、では、そのあとどうするかという、その見当がつかないのである。  考えても始まらない。  四郎に寄って、組み、寝技に持ち込む。  この姿勢になった以上は、それ以外に方法はない。  上になりさえすれば——  円太郎はそう思っている。  上になりさえすれば、あとはいつもの手順通りだ。  もう、組む必要はない。  四郎が逃げなければ、しがみついて体重をのせてやるだけだ。  右の|顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》に痛みがある。耳のあたりだ。四郎が膝を当ててきたところだ。そこが、熱をもって膨らんだようになっている。  多少、ふらつくが、気にすることはない。  膝で、前に出た。  四郎は、逃げなかった。  動かない。  手を伸ばし、どこでもいいから掴んで引き寄せ、上にのる——そうしようと思ったその時、 「あれ!?」  円太郎は転がされていた。  伸ばした手を軽く引かれ、四郎が横へ回り込んだと思ったら、畳の上に仰向けにされていたのである。  あれ!?  どうして、このようなことになったのか。  膝で立っている状態の人間——つまり、重心が低くなっている人間を、どうして投げることができるのか。  そう思う途中で、  みしっ、  と、円太郎の右頭部が軋んだ。  四郎が、右膝を当ててきたのである。  がつり、  ごつり、  と、円太郎の顔に、四郎の肘が落ちてくる。  円太郎の鼻から、血が流れ出す。 「こんなことが、できる奴だったんだ、おまえ……」  円太郎は、声に出して、嗤《わら》った。  わかった。  あれだ、さっき、耳に近い|顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》を膝でやられたあれだ。  あれをやられてから、ふらついているのだ。  なんだっけ。  言ってたな。  一心斎だ。  よいか、円太郎——  そう言って、一心斎が自分の耳を指差したことがあった。  この奥に、蝸牛《カタツムリ》のような臓器がある。  それが、人が立つということを可能ならしめておるのだ。  これを、潰されたり、壊されたりしたら、人は立ってはおられぬ。  闘いの最中に、ここを叩いて、人が立つということを狂わせることもできるのじゃ。  あれか。  あの時、一心斎が言っていた、あれを、こいつにやられたのか。  それにしても、いいように、顔を叩いてくるな、こいつ。  やるなあ、こいつ——  円太郎は思う。  少し、おれを弱らせてから、また顔を庇おうと手を伸ばしたら、その手を取ってくるつもりなんだな。  痛いというよりは、なんだかいい気分だった。  本気というのは気持ちがいい。  円太郎は、顔を殴られるままにして、手を突き、起きあがった。  立った。  自分の武器は、殴られることへの耐性があることだ。痛いことであれ、哀しいことであれ、自分の肉体に加えられてくる負の感覚や、負の感情に対し、自分は、他人よりずっと耐性がある。  この四郎だって、なかなかのものだ。  右足首の関節は、いかれている。肋骨《あばら》も、二本は折ってやった。鼻は、少し右へ曲がって血が流れている。  それなのに、表情を変えない。  くやしいだとか、悲しいだとか、痛いだとか、そんなものを顔に出そうとしない。  なんだか、それは、可哀そうのような気もするな。  おれよりも、こいつの方が可哀そうじゃないのか。  あれ!?  このおれは、このおれと闘っているこいつのことを、可哀そうと想っているのか。  こんなのは、初めてのことだ。  こいつと闘っていると、自分の中から色々なものが出てくるようだ。  自分の知らなかったこと、思ってもみなかったものが、自分の中から出てくる。  なんだか、楽しい—— 「不思議じゃのう……」  円太郎は、四郎を見下ろしながら、つぶやいた。  自分は、強くなっている——  そう思った。  この、保科四郎という漢《おとこ》と闘っている最中に、ひと皮も、ふた皮も剥けたような気がする。剥ける度に、強くなっている。その実感があった。  こいつが、おれを強くしてくれたのだ。  おれは、この漢が好きだ。  だから—— �殺してやろう�  そう思っている。  いいや、少し違うな。  似ているが、違う。  殺したいのではないからだ。  ただ、本気でやるという意味だ。  これまで、どのような闘いであれ、口では言えない、微妙な手加減があった。それをうまくは言えないが、強いて言うのなら、 �殺さない�  ということだ。  相手が、死なぬように、どこかで力や技に、無意識のうちに止め[#「止め」に傍点]が入っていたのではないか。  その止め[#「止め」に傍点]をせずに、生まれて初めて闘うことができる。  自分がやるのは、徹底してこの漢に勝つことだ。  その結果として、この漢が死んでしまうのなら、かまわないということだ。  そうしていい相手だ。  そのかわり、向こうだって同じだ。  自分も、死んでもいい。  死んでも恨まない。  むしろ、本望だ。  何をやってもいやがられ、けむたがられてきた。  柔術に出会い、その柔術によって自分はここまで生きてこられたのだ。柔術によって生かされてきた自分が、柔術のことで死ぬのなら、それはそれでいい。  みんな、おまえのおかげだ。 「おい……」  円太郎は、四郎に声をかけた。  おまえが好きだ——  そう言おうとした。  しかし、口から出てきたのは、別の言葉だった。 「おれを殺していいぜ」  四郎の表情は、変らなかった。  これまでと同じだ。  無表情で、むっつりと、どちらかと言うのなら、怒ったような顔をしている。  しかし、四郎の眼から、ひと筋、溢れてくるものがあった。  それは、涙であった。  なんだ、どうしたのだ。  おい、なんでおまえが泣くのだ。  そう思う円太郎の眼からも、涙が流れ出している。  あれ!?  頬がくすぐったい。  どうしてしまったのか、このおれは。  もしかして、泣いているのか。  哀しくなんかないのに、どうして、おれが今、泣くのか。  四郎が、立ちあがってきた。  痛いはずの右足を、畳の上につく。  組んだ。  すかさず、円太郎は四郎の身体を上に持ちあげようとした。  しかし、宙に浮きあがったのは、四郎ではなく、円太郎の巨躯《きょく》であった。  両足が真上に跳ねあがっていた。  円太郎の身体は、真っ逆さまになっていた。  そのまま、脳天から畳の上に落とされた。  山嵐だ。  地響きをたてて、畳の上に円太郎が倒れ込んだ。 「いっ……」  右手をあげて、�一本�を宣言しようとした久富鉄太郎が、途中で、その声を止めていた。  むっくりと、円太郎が起きあがってきたからである。  それは、もう、まぎれもない一本であった。  もしも地面の上であったら、円太郎は死んでいたかもしれない。畳の上でさえ、死の可能性のある投げであった。  しかし、その一本を、鉄太郎は宣言しそこねていた。  あまりにも、けろりとした顔で、円太郎が起きあがってきたからである。 「止めろ!」  叫んだのは、大竹森吉であった。 「終《しま》いじゃ、止めろ、死ぬぞ!!」  大竹が立ちあがって叫んでいる。  久富鉄太郎は、その時、躊躇した。  大竹が�死ぬ�と言っているのが、どうやら円太郎ではないということがわかったからである。 「保科を死なせる気か!!」  激しい声であった。  大竹が心配していたのは、好地円太郎ではなく、保科四郎であったのである。  円太郎は、四郎に駆け寄った。  投げられなかった。  円太郎が、四郎の短い髪を両手で掴んでいたからである。 「はりゃーっ!」  円太郎が、背を反らせ、次の瞬間、四郎の顔面に、激しくその額を打ちつけていた。  試合場に、悲鳴に近い、驚愕の声があがっていた。 (二十八)  おまえ、石に頭をぶつけても痛くないんだって?  源二郎が言う。  うん、  と円太郎はうなずく。  また、あれをやってみろよ。  石で、頭を叩いて、血出してみな。  そしたら、これをやるよ。腹すかせてるんだろう。  いつも、独りだった。  みんなが嗤うと、嬉しかった。  馬鹿にされてるのがわからなかった。  わかってからも、独りぼっちよりは、馬鹿にされる方がよかった。  な、ほんとに食ったろう。こいつ、頭も鈍いんだ。  食った、食った。  円太郎が、まぐそを食った。  あ、泣いてる。  円太郎が泣いてら。  今日から、わしが、そなたの父じゃ……  一心斎の声が響く。  円太郎、桜がみごとじゃのう……  桜吹雪の中を、一心斎と共に歩いている。  桜が、風に巻きあげられ、花びらが青い空に吸い込まれてゆく。  おい、円太郎……  おい、円太郎……  おまえは、心の優しい子じゃ……  いつか、世の全てが、おまえの敵となるような日もあるやもしれぬ。その時、このわしだけは、このおれだけは、ぬしの味方をしてやろうと、そう思うてきた。  おまえは、いつか、その性《たち》により、人を殺めるようなことのあるやもしれぬ……  桜の中に立って、一心斎が円太郎を優しく見つめている。  わしは、もう、ゆかねばならぬ……  待てよ。  待てよ、一心斎。  まだ、行くな。  この前は、わざと負けた、あれは謝るから——  ほら、おれにまた首をとらせて締めさせてみたいだろう。  行くな、一心斎。  円太郎よ、何ものも、この地上にとどまることなどできぬのじゃ。  人さえ、人にとどまらぬ。  この世のものは、みな、逝くものじゃ。  やだ。  円太郎は、だだをこねる。  一心斎、おれは強くなるぞ。  もっと強くなる。  だから、もう少し、行くな。  そうはいかぬのじゃ。  一心斎。  円太郎よ、もうゆく。  円太郎よ……  円太郎よ…… (二十九) 「円太郎!」  声がしている。 「円太郎、おい!」  薄目を開けると、知った顔が自分を見下ろしていた。  大竹森吉の顔であった。  なんだ、一心斎ではないのか。  いい夢を見ていたのに、どうして起こすのか。  顔をあげる。  あれ?  ここはどこだ。  畳の上だった。  周囲に、たくさんの人間がいる。  すぐ向こうで、畳の上に座している漢がいた。  鼻が曲がり、片方の眼が塞がって、口で呼吸をしている。  保科四郎であった。  そうだ、自分は、あの漢と闘っていたのではなかったか。  四郎が、正座をして、こちらを見つめている。  おれは、寝ていたのか。  ということは、つまり、負けたのか、おれは——  だったら、あいつが勝ったのか。  あの、ちっこいやつが。  このおれに勝つやつがいたのか。  へええ——  円太郎は感動していた。 「よい試合じゃった、円太郎」  大竹が言った。  ゆっくりと、円太郎は、上半身を起こした。 「凄い漢じゃ、円太郎」  違うぜ、大竹……  円太郎は、四郎を見やった。 「本当に凄いのは、あの漢じゃ」  自分が、生まれ変わったような気分であった。  つるりと皮が剥けて、別の人間になったのではないか。憑きものが落ちたような顔、とでも言うのであろうか。  円太郎のそういう顔を、大竹は、初めて見るような眼で見た。円太郎が、闘った相手のことを褒めるのも、これまでなかったことではないか。 「なんだか、気分がいい……」  円太郎はつぶやいて、正座をした。  四郎に向かって、相対した。  円太郎が、無言で頭を下げると、四郎もまた頭を下げた。  円太郎は、頭を起こし、立ちあがった。  一瞬、足元がふらついたが、すぐに円太郎の足は畳を真っ直ぐに踏み始めた。 「おい、大竹……」  試合場から降りながら、円太郎は言った。 「おれは、どういう風に負けたんだ?」 「覚えとらんのか、円太郎」 「うん」  円太郎は、楽しい話をねだる子供のように、うきうきした声でうなずいていた。  と——  試合場から下に降りたその時、円太郎の身体が、いきなり前のめりに倒れ込んでいた。  倒れて、円太郎は動かなかった。 「おい、円太郎!」  大竹森吉の声が、会場に響き渡った。 「円太郎、どうしたのじゃ!?」 (三〇)  円太郎が、四郎の髪の毛を両手で掴み、額を四郎の顔面に打ちつけたのは、二度であった。  その二度目で、四郎の鼻の軟骨が折れて曲がってしまったのである。  しかし、その二度目の頭突きを受けた時、四郎の手が、円太郎の袖と奥襟を掴んでいた。 「りゃあっ!!」  四郎の右足の指が、円太郎の脛《すね》を掴んで、上へ掻きあげた。  宙で、円太郎の巨体が逆さになった。その状態で、円太郎は、脳天から畳の上に投げ落とされたのである。  四郎独特の山嵐であった。  地響きをたてて、円太郎は仰向けに倒れた。  もう、起きあがることはできまいと、誰もが思ったような倒れ方であった。  しかし、すぐに、円太郎はけろりとした顔で起きあがってきた。  四郎は、右足首の関節を、円太郎によって潰されている。それで、踏ん張りが効かなかったのだ。  笑いながら、円太郎はふたつの拳を高だかと持ちあげた。  握った円太郎の拳の指の間に、四郎の髪の毛が何本も挟まっている。その拳で、円太郎は四郎を殴りつけてきた。  それを、四郎は、身を沈め、再び膝立ちになってかわした。  四郎の身体につまずいたようなかたちで、円太郎が前のめりに倒れた。  その背へ、するりと四郎が這いあがり、跨がった。  四郎の両腕が、円太郎の首にからみついた。  頸動脈が、締まった。  円太郎の顔が、たちまち真っ赤になって膨れあがる。その顔で、円太郎が起きあがってきた。  背へ、四郎を乗せたままだ。  仰向けに、円太郎が倒れ込んだ。自らの体重を乗せて、四郎の後頭部を畳に打ちつけようとしたのである。  四郎の身体が、円太郎の身体の下になっている。  その上で、仰向けになった円太郎の身体がもがいている。  ふいに、円太郎の身体が動かなくなった。  円太郎の身体の下から、円太郎の太い頸に巻きつけていた腕をほどいて、四郎が這い出てきた。 「一本!」  久富鉄太郎が、右手を挙げて叫んだ。 「それまで、それまで!」  その声を聴きながら、四郎は正座をした。  円太郎の巨体は、仰向けになったまま、動かなかった。  円太郎は、両眼を開いたまま、笑っていた。 [#改ページ]  十二章 三巴戦 (一)  警視庁武術試合の結果は、柔術関係者のみならず、市井の人間たちの間にも知れ渡り、その口の端《は》にのぼることとなった。  第一試合   勝者・講道館 山下|義韶《よしつぐ》。   敗者・起倒流 奥田松五郎。  第二試合   勝者・良移心頭流 中村半助   敗者・講道館 宗像逸郎  第三試合   勝者・講道館 横山作次郎   敗者・揚心流戸塚派 照島太郎  第四試合   勝者・講道館 保科四郎   敗者・揚心流戸塚派 好地円太郎  どの試合も一本で勝負が決まった。  しかし、評判になったのは、古流の錚々《そうそう》たる顔ぶれの柔術家と闘って、三勝一敗という成績をおさめた、新興勢力である講道館嘉納流であった。  それは、試合後、毎日のように、講道館を入門者が訪れるという現象となって現われた。  講道館の中でも、特に評判となったのは、保科四郎と、横山作次郎であった。  保科四郎については、その身体の小さなことと、その強さが話題になった。あんなに小さな身体で、あれだけ身体の大きな男によく勝てたものだ——鬼の化身ではないか、という者までいた。  横山作次郎の噂の多くは、その天下無類の強力《ごうりき》についてであった。  横山は、強い。  講道館に唯一、土をつけた、良移心頭流の中村半助と闘ったら、どちらが強いのか。 「横山じゃ」 「半助じゃ」 「横山の天狗投げをくろうたら、いかに半助といえども立ちあがれまい」 「中村と言えば、鍾馗《しょうき》の半助と異名のある男じゃ。首を吊っても死なぬというぞ」 「それよりも、講道館一は誰なんじゃ。横山と保科では、どちらが強いのか」  そういう話題になると、決まって出てくるのが、嘉納治五郎のことであった。 「しかし、そのふたりを教えた先生はどうじゃ。横山と保科に柔《やわら》を教えたくらいじゃ。ふたりより強かろう」 「師範と言えば、もう、歳なのではないか——」 「馬鹿言え。先生の嘉納治五郎は、横山や保科と、歳もあまり変わらぬと聴くぞ——」 「幾つじゃ」 「まだ、二〇代の半ばじゃ」  評判になればなるほど、講道館への入門者が増えてゆく。  これに、危機感を持ったのが、古流の柔術家たちであった。  明治になって、武道は衰退した。  道場に人が集まらなくなった。  剣聖と言われた、榊原鍵吉《さかきばらけんきち》でさえ、撃剣会を起こし、浅草や上野で剣術を興行し、人々にこれを見物させて金をとった。  多くの武術家を食わせてゆくための方便ではあったが、武芸の技を見せて、それで客から金を貰ったということは事実であった。  日本の武道は、明治の初期、危機にあったといっていい。  これを救ったのが、警視庁であった。  警官たちに武術の指導をするための武術世話係を置き、これを師範として多くの武術家を警視庁に集めたのである。  この時期、日本各地の武術家たちの多くが、そのため東京に集まっていたのである。  柔術世話係が置かれたのが、明治十五年であった。  これによって、ようやく、衰退しかけていた柔術が、息をふきかえしたのである。  しかし、警視庁武術試合において、柔術の道場にとっては生命線とでも言うべき新しい入門者——いちばんおいしいところを、講道館がさらってしまうこととなったのである。  今日では、柔道と言えば、柔術とは別ものと考えるのが一般的ではあるが、この当時、講道館流は、柔術の一流派であった。正確に言うなら、嘉納流柔術とでも言うべきものであり、事実、嘉納流と呼ばれた時期もあったのである。  嘉納治五郎は、古流柔術を学んだ柔術家なのである。  このことは、キリスト教の祖となったイエスが、キリスト教徒でなくユダヤ教徒であったのと似ているかもしれない。  ともあれ、古流の者たちの中には、この新しい柔術流派である嘉納流を、心よく思わぬ者もいたのである。  揚心流戸塚派の者たちの中には、 「嘉納は卑怯である」  そういう者が少なからずいた。  警視庁武術試合におけるルールのことであった。 �投げも一本と認める�  ということが、試合前に決まった。  このことを根に持つ者が、戸塚派には多くいたのである。  投げというのは、闘いの流れの中に生まれる局面のひとつであり、投げれば、たとえ相手がまだ闘える状態であっても、投げた方の勝ちとするというのは、おかしいという考え方である。  同じ戸塚派や、古流の中でも、これは話題となった。 「何故、投げただけで勝ちなのか」  という者に対しては、 「殺し合いではない。剣術をやる者が、試合で真剣を使わぬのと同じじゃ」  という者がいる。 「投げで一本ということであれば、逆に嘉納流が投げられれば、それで負けではないか。五分と五分じゃ」 「しかし、投げられても、まだどちらも動けるではないか」 「今度《こたび》の試合では、ただ一度の投げでは、勝負を決めておらぬ。これが、畳の上でなく地面の上であったらという見方をもって、その投げを一本とするかどうかを見極めるということで、試合が行なわれたのではなかったか——」 「しかし、投げで一本が決まるという意味では同じじゃ。それでは、投げよりも寝技や固め技を得意とする流派は、試合で腰が引けてしまうということがあるのではないか」 「だが、戸塚派で言えば、問題は、全て承知で、その規則を呑んだということじゃ。その上で、試合に出場したのであろう」  今さら何を言うか——  戸塚派、あるいは、戸塚派を擁護する人間たちも、結局考えはそこに行かざるを得ない。  規則を承知で出場した。その規則について、試合後にとやかく言うのは、武道家にあるまじきことである。  戸塚派にとっても、自問自答の末、そこに理屈はもどってゆく。  しかし、理屈と感情は別ものであった。  口にできぬ不満ほど、腹の中に溜まりやすい。  そういう時に、千葉にある揚心流戸塚派の道場を、ひとりの漢《おとこ》が訪れたのであった。 (二)  試合が終ってから、半月ほど経ったある日、その袴姿の漢は、門をくぐり、道場の玄関に立った。 「お頼み申します」  その声を聴いて、玄関に出てきたのは、稽古衣を着た中田仙二郎《なかだせんじろう》と、佐川常一《さがわつねかず》であった。  玄関に立っていたのは、五尺一寸にも満たない小兵の漢であった。  袴姿で、右手に、風呂敷包みを提げていた。  小兵ではあるが、子供ではないとすぐに知れた。  面構《つらがま》えがいい。  眼は、丸いが、唇の閉じ方に、意志の強さが表われている。  右の瞼《まぶた》がやや腫れて、顔のあちこちに、小さな傷がある。  ひと目で、何か武道で鍛えられた肉体であるとわかる。そのものごしも、常人のものではない。  誰《たれ》か?  そう問われる前に、その小兵の漢は口を開いた。 「保科四郎と申します」  漢が、その名を口にした途端、ふたりの顔色が変わった。  保科四郎と言えば、半月前東都の弥生社で行なわれた警視庁武術試合において、同門の好地円太郎を破った漢であったからである。しかし、ふたりとも、四郎の顔を知らなかった。まだ、写真も一般的ではない時代だ。四郎の顔は、当日試合場に行った西村定中、大竹森吉以下、数人の者しか知らないのである。  だが、顔は知らなくとも、その名前は、今や、戸塚一門の全員が知っていた。 「保科じゃと!?」  中田の声が、ひきつった。 「はい」  四郎がうなずいた。 「何の用じゃ」  佐川が訊ねた。 「好地円太郎君にお目にかかりたいのですが——」  四郎の顔に、表情はない。  笑みはもちろん浮かんでいないが、気負いも、緊張もしていないように見える。強いていえば、その顔は、困ったような表情をしているように見えなくもない。 「好地に会う?」 「お見舞いにうかがいました」  言った四郎の鼻は、もう、曲がってはいない。  試合の後、横山が、 「四郎、我慢せい」  そう言って、鼻を掴み、みりみりと、もとの正常な位置まで軟骨を曲げもどしてしまったのである。  鼻に関しては、治療らしい治療はそれだけしかしなかった。 「講道館の人間が、何故、好地を見舞いに来るのじゃ」  佐川の声が高い。  言っているうちに、自分の高い声にさらに興奮して、なお声が高くなってゆく。  その時—— 「おい」  奥から声がした。 「何を騒いでおる」  奥から姿を現わしたのは、大竹森吉であった。  稽古衣を着ていた。  大竹は、玄関に立っている保科四郎を見るなり、 「おう、保科ではないか」  笑みを浮かべて言った。  すでに、大竹は、四郎とは講道館でも顔を合わせている。  奥田たちと一緒に、訪れた時である。 「何の用だね」  大竹が問うと、まだ声を高くしたまま、 「好地の見舞いに来たというのです」  佐川が言った。 「どうしましょう」  中田が佐川に続けた。  ふたりの言葉を受けて、 「好地君のお見舞いにうかがいました」  四郎はそう言って、うなずくように、こくん、と頭を下げた。 「おめえたち、このおいらに恥をかかせるんじゃねえよ。講道館の保科四郎が、好地の見舞いに来たんだ。どうしましょうはねえだろう」  大竹は、四郎に笑みを向け、 「てえへんな決心をして、来たんだろう。それだけで、充分ありがてえ。さあ、あがんな。心配《しんぺえ》はいらねえ。おまえさんにゃ、何もさせやしねえよ」  そううながした。 「ありがとうございます」  四郎は、ぺこりと頭を下げ、 「失礼します」  大竹を見あげた。 「よく来てくれた。おめえさんにゃ、訊きてえこともあったんだ。円太郎のやつも悦ぶぜえ」  四郎は、また一礼をし、下駄を脱いで、道場の板の上にあがった。  下駄の向きをなおして振り返ると、 「こっちだ」  もう、大竹が歩き出していた。 「ここじゃ」  大竹は、廊下に面した、閉じられた障子戸の前で立ち止まった。 「円太郎、入《へえ》るぜ」  そう声をかけて、大竹は障子戸を開いた。 「入《へえ》ってくれ」  大竹は、自分がその部屋に入りながら、四郎をうながした。  四郎は、大竹の後からその部屋に入っていった。  その部屋の空気の中に、四郎の鼻は、糞便の匂いを嗅いでいた。  六畳間の中央に、布団が敷かれ、そこに好地円太郎が仰向けになっていた。 「おい、円太郎、保科四郎が、おめえの見舞いに来たぜ」  大竹が、枕元に胡坐を掻いて座った。  少し離れた畳の上に、四郎は正座をした。  右足を、尻の下から少し外側にずらしているのは、そこの怪我が、まだ完全に治りきってはいないからである。  四郎は、好地に眼をやった。  それを見た時、四郎は自分の眼を疑った。  これが、あの好地円太郎か!?  あれから、わずか、半月ほどしか過ぎていないというのに、円太郎の身体が半分に縮んでしまったかのように小さくなっていた。  頬の肉が、ごっそりと削げ落ちていた。腰のあたりまで掛け布団が掛けられていたが、あの分厚《ぶあつ》かった胸が、嘘のように平《たいら》になっている。寝巻の間から見える胸に、肋《あばら》が浮いていた。身体の両脇に伸ばした腕は、木の枝のように細くなっている。  頭部を、左右から挟むかたちに、添え木があてられ、顔の動きを固定している。  大きくなったように思えるのは、眼球だけであった。  その眼球が動いて、四郎の方を見た。  動いたのは眼球だけで、手も、身体も、ぴくりとも動かない。  糞便の臭いが部屋にこもっているということは、便所へも行けずに、ここで下《しも》の世話までしてもらっているということなのであろう。 「こういう姿を、おめえさんに見せるのもどうかと思ったんだが、円太郎が保科四郎の顔を、どうしても見てえといってるんでなあ——」 「顔を?」 「円太郎のやつ、おめえさんの顔も、試合のことも、おぼえちゃあいねえんだよ」  大竹は言った。 「自分が、勝ったのか、負けたのかと訊くからよ、保科四郎というのに負けたんだと試合のことを、おいらが教えてやったんだよ」 「———」 「そうしたら、その保科四郎に会いてえと、ずっと円太郎が言っていたんだよ。だから、あがってもらった」 「すみません」  四郎は、頭を下げた。 「謝まるこたあ、ねえよ。ありゃあ、まっとうな勝負だ。ほっときゃあ、おめえさんがこうなってたかもしれねえんだ。最後は頸《くび》を締めて落としてくれたんでな、こうして、円太郎も生命《いのち》だけはある」  大竹が、そこまで言った時—— 「あんたが、保科四郎か……」  円太郎が、四郎を見あげながら、つぶやいた。 「はい」  四郎がうなずくと、 「凄いな、おまえ……」  円太郎が、小さく唇を動かしながら言った。  低くて、細い、たどたどしい幼児が発っするような声であった。 「おれに、勝ったんだって?」 「———」  四郎は、無言でうなずいた。 「殺してたかもしれねえな……」  ぼそりと、円太郎がつぶやいた。 「なあ、大竹よう、そうだよな……」 「ああ」  大竹が、うなずく。 「おれを、こんなにするくらいに強いってことは、おれは、たぶん、いっちゃった[#「いっちゃった」に傍点]んだろう。おれが勝ってたら、殺《や》っちゃってたよな」 「だろうな」 「負けて、よかったかもな……」  これには、大竹も、四郎も、答える言葉がない。 「爺《じじ》いにゃ、申しわけないけどよ。爺いのやつ、いつか、おれが誰か殺すんじゃないかって、心配してやがったからなあ……」  爺い——というのは、四月に死んだ戸塚一心斎のことである。 �おまえは、性格の優しい子じゃ……�  それが、一心斎が円太郎に残した言葉であった。  ほろり、と、大粒の涙が、円太郎の眼からこぼれ落ちた。 「なあ、大竹よう……」 「なんだ、円太郎」 「こいつはよう、おれとおんなじだ。見りゃあ、わかる。口下手でよう、誰と会ってもよう、うまく口が利けねえ。だからよ、おれも、うまく言えねえんだけどよ。おめえは、こいつの味方をしてやってくれ……」  たどたどしい口調であった。  聴きとりにくい声であった。  大竹は、顔を低くし、耳を円太郎の顔に寄せた。 「うちの道場の連中がよ、こいつのことを悪く言うかもしれねえ。そういう時やあ、おめえがよ、こいつのことを守ってやってくれ。なあ、頼むぜ、大竹よう……」 「わかった、わかってるぜえ、円太郎……」  大竹が、太い指先で、眼の下をぬぐった。  四郎は、うつむいたまま、膝に手をあて、そこの袴の生地を掴んでいる。その手の甲に、涙がぽたぽたと落ちた。 (三)  大竹と、四郎は、下駄を鳴らしながら歩いていた。  帰る四郎に、 「そこまで送ってゆく」  と、大竹が言って、ともに道場を出たのである。  戸塚道場の誰かが、帰ってゆく四郎の後を尾《つ》行けて、何かするかもしれない——その用心棒のつもりであったのだろう。  しかし、それだけではなかったということが四郎にわかったのは、歩き出して一〇分ほどたってからであった。 「あんた、あの時、御式内《おしきうち》をつかったね」  ふいに、大竹が、そう訊ねてきたのである。  四郎は、無言で歩いている。 「さっき、おめえさんにゃ、訊きてえこともあったんだと言ったが、そりゃあ、このことさ——」  四郎は答えない。 「あんたが、保科近悳《ほしなちかのり》の養子であるこたあ、みんな知ってる。保科近悳と言やあ、大東流《だいとうりゅう》の伝承者であるというのは、世間はともかく、おれたちの間じゃあ、知られた話だ——」 「———」 「大東流となりゃあ、外に出さねえ�御式内�ってえ秘伝のあるこたあ、これも、知ってる人間は知ってる話だ——」  そう言えば、半月前、四郎が円太郎と試合をしている最中、 �御式内だ�  と大竹が声をかけてきている。  まさに、四郎がその御式内の構えに入った時であった。 「その御式内、名ばかりは耳にしていても、これまで、誰もまだ見たことがねえ——」  四郎は、そこで、初めて、横を歩いている大竹の方を見やった。  大竹と眼が合った。 「おれはな、一度だけ、見たんだよ」 「一度だけ?」 「そうだ。確信があったわけじゃねえ、しかし、あれが御式内かと、昔、そう思ったことがあったんだよ」 「いつですか——」 「四年|前《めえ》のことだよ」 「四年前——」  四年前と言えば、明治十五年——講道館が創設され、四郎が入門した年である。 「武田惣角《たけだそうかく》というのを、知ってるかい——」  大竹は言った。 (四)  明治十五年、九月——  その男が、突然、戸塚道場を訪ねてきたのだという。  小さな男であった。  その丈《たけ》、五尺に満たない。  一四八センチあるかどうか。  子供ではない。  顔つきは、立派な大人だ。  年齢は、二十三歳か、四歳くらいであろうか。  眼光、炯々《けいけい》として、猛禽類か獣の眸《め》を思わせた。  しかも、その眼つきは、ことさら作ったりしているものではない。それが常の眼つきと思えるほど、自然なものがあった。  短い髪が、乱れている。  顔には不精髯《ぶしょうひげ》が浮き、着ているものも、穿いている白縞《しろじま》の袴もぼろぼろであった。歯が磨り減って、ほとんど板と同じになっている下駄を履いていた。普通は、その下駄の歯は、歩き方の癖が出て、斜めに減ってゆくものだが、その男が履いている下駄は、水平に減っている。  右手に、杖を握っていた。 「武田惣角——」  と、その男は、玄関に出てきた中田仙二郎に名のった。 「大東流を学んでおります」  男——武田惣角は言った。 「何か、御用事ですか」 「御稽古を、拝見させて下さい」 �御稽古拝見�  これは、他流派の者や、その道場の流派に所属していない者が、出稽古や、修行にやってくる時に使う言葉であった。  基本的には、その道場に縁のある誰かしらの紹介状を持って、顔を出すものなのだが、紹介状を持たずに、金が目当ての道場破りに来る者も、たまにあった。 「どなたかの、御紹介状はお持ちですか?」  中田は訊ねた。  これは、当然の問いであった。 「ありません」 「なら、だめだな」  そういうやりとりをしている時に、外から帰ってきたのが、西村定中、大竹森吉であった。  この時、まだ戸塚彦介英俊(一心斎)は道場主であり、その息子の戸塚彦九郎英美と並んで、定中は道場の師範代を務めていた。  それに、最初に気づいたのは、惣角であった。  中田に向かって頭を下げ、すうっと横へ身を引いて立ったのである。  人の歩く足音を、中田が耳にしたのはその後であり、それが定中と大竹だと知ったのは、その足音の主が姿を現わしてからであった。 「先生!?」  中田は、慌てて声をかけ、 「おかえりなさい」  頭を下げた。  定中と大竹は、足を止め、惣角を見やった。 「こちらは?」  定中が中田に問うと、 「武田惣角と申します」  惣角が、浅く頭を下げた。 「大東流をやっておられるとか——」  中田は言った。 「へえ、大東流と言やあ、会津のお留《と》め流だ。御式内ってえ術もあるそうじゃねえか」  大竹森吉が言った。 「おまえさん、その杖、仕込みかい?」  定中が訊ねた。 「はい」  惣角がうなずく。  惣角の視線が、定中の握っている、太いステッキの上にとまった。 「これは、仕込みじゃない。芯に鉛を流し込んではあるがね」  定中は、惣角の眸を見つめている。  それで?  と、定中の眸が問うている。 「御稽古を拝見させて下さいと申しあげたのですが、今、断られたところです」  惣角が言う。 「断った!?」  大竹が、中田を見やった。 「紹介状をお持ちでなかったので……」 「いいじゃあねえか。あがってもらって、稽古を見ていってもらやあいい。こちらも、大東流を教《おせ》えてもらやあ、それで、あいこだ」  大竹は定中に視線を送り、 「どうだい、義兄《あにき》?」  そう訊ねた。 「あがっていただきなさい」  定中は、中田に言った。  西村定中と、大竹森吉が許すのであれば、中田には、否も応もない。 「承知いたしました」  それで、惣角は、戸塚道場にあがることができたのである。  道場主の一心斎と英美は、所用で出かけている。  道場にいたのは、金谷元良、片山弥次郎、山本欽作、今田正儀、中田仙二郎、佐川常一、照島太郎——そして、まだ一〇代の好地円太郎の顔もあった。  いずれも、錚々たる顔ぶれであった。  それに、西村定中、大竹森吉が加わった。  道場には、他に百人ほどの門下生がいた。  その中へ、ただひとり、惣角は平然として足を踏み入れた。  床に突いてこそいないが、惣角はまだ左手に杖を握っている。  惣角は、壁から四尺ほど離れた場所に、壁に背を向けて正座した。  惣角の左横には、件《くだん》の仕込杖が置かれている。これを、自分の左側の床に置くということは、惣角が戸塚道場に気持ちを許していないということを表わしている。  惣角のことを、定中も大竹も、道場生たちに紹介をしなかった。  定中たちが入ってゆくと、それに気づいた道場生たちが動きを止めて、挨拶をしかけたのだが、 「そのまま、続けなさい」  定中が言ったために、稽古はほとんど中断されず続けられた。  定中も、大竹も、私服のまま、そこに座した。  形稽古《かたげいこ》の最中であった。  ふたりが、組になって、同じ型の稽古をする。  一方が片手をあげて打ってくるのを、受ける側が、それをかわして、打ってくる腕を取り、相手を倒してそのまま腕を極《き》める——それを何度か繰り返し、今度は受ける側を代えて、また同じことをする。  一方が、打ってかかるということでは同じだが、受ける側の技が、変化する。  幾つかの形が終ったところで、 「やめい」  大竹が、立ちあがって声をかけた。 「照島、中田」  大竹が、ふたりの名を呼んだ。  照島太郎と中田仙二郎が前に出てきた。 「大東流の、武田惣角さんじゃ」  ここで、初めて、大竹が惣角のことを門下生たちに紹介した。  惣角は、座したまま、頭を下げた。 「稽古を見たいと言うのでな、お通しした。型だけでは、退屈じゃろうと思うてな、照島、中田、両名そこで乱取りじゃ」  大竹はそう言った。 (五) 「そこでな、やったのさ——」  歩きながら、大竹が四郎に言った。 「何をですか」 「おまえさんと横山が、おれにやったあれだよ」  この春——  警視庁武術試合に講道館の出場が決まった時、大竹森吉、市川大八、奥田松五郎が�御稽古拝見�にやってきたことがあった。  そのおり、四郎と横山が乱取りをして、四郎がわざと横山を大竹に向かって投げ飛ばしたことがあった。  それをやったと、大竹は言っているのである。 「ふたりに耳打ちしてな、照島に、中田を惣角に向かって投げつけさせたのさ」 �おもいきりやっていいぜ……� 「どうなったのです」 「きれいにやられたよ」  愉快そうに、大竹は笑った。  照島が、中田を投げた。  投げられた中田は、勢いにまかせ、なんと右足で惣角の頭部を蹴りにいったのである。  惣角の頭を、中田の足が蹴るかと見えた次の瞬間、宙を飛んで、惣角の後方の羽目板に叩きつけられていたのは、中田であった。  惣角が、身体を横にして、右手で軽く中田の足をはらった。  それだけで、中田の身体は宙を飛んで、頭から壁に叩きつけられていたのである。中田は、眼を開いたまま、意識を失っていた。  ざわっ、  と道場がざわめいた。  そこへ—— 「動くんじゃねえ!」  鋭く、西村定中の声が叫んだ。  それで、立ちあがりかけた者、腰を浮かせた者、門下生たちの動きがそこで止まっていた。 「動いたら死ぬぜ」  大竹は言った。  惣角は、その時すでに、左手で杖を掴み、片膝を立てて、刀で言えば柄の部分を右手で握っていた。  その前に、大竹が膝を折って座している。 「武田さん、すまん。今のはこのおれがやらせたんだ。気に入らなけりゃあ、このおれをやってもらってかまわねえよ」  頭を下げた。  杖に手をかけたまま、すうっと惣角は立ちあがり、 「ずるい方だ」  惣角はつぶやいた。 「講道館と、戸塚道場——両方で見せてしまいました……」  惣角は、そう言って頭を下げ、そのまま道場の出口まで退がってゆき、 「失礼いたします」  下駄を履いて去っていったというのである。 「その時にな、見させてもらったのが、御式内さ——」  大竹は、四郎に言った。 「おれが、御式内を知ってたってのは、その時見たもんだよ。あの時、惣角が言っていた、講道館にも見せたってえ言葉が、妙にひっかかっててなあ。どうなんだい。武田惣角、うちへ来る前に、講道館でも、何かやらかしたんじゃあ、ねえのかい?」  明治十五年九月といえば、武田惣角が、四郎を訪ねて講道館にやってきたことがあった。  そのおり、嘉納治五郎が惣角と試合をしている。  その時、治五郎は、締めの技で惣角に敗れている。  それが、四郎にはどういう技かわかっていた。  御式内の�転び締め�だ。  今では、それは、講道館の技のひとつになっている。  今日言うところの三角締めと同種の技であった。 「嘉納先生が試合われて、敗《ま》けました」 「破れたのか、嘉納師範が——」 「はい」 「講道館で、うっかり見せてしまったと、あの男が言ったのは、その時、嘉納さんが負けた技かい」 「だろうと思います」 「何て技だい?」 「転《ころ》び締《じ》め——」 「転び締め?」 「掛ける方が仰向けに寝て、上から攻めてくる相手に対して、下から足を使って頸を締めにゆく技です」 「なんだって?」  言葉で耳にしただけでは、それがどういう締め技かわからない。 「興味がおありなら、お教えいたしましょうか——」 「かまわねえのかい、他流に技を教《おせ》えたりして?」 「ええ」 「武田さんは、秘密にしたがっていたようだが……」 「すでに、会津藩が無い以上、もう、お留め技ではありません。講道館に入門すれば、誰でも教えてもらえる技です——」 「ほう」 「義父《ちち》の近悳《ちかのり》も、御式内を自由に使ってよいと申しておりました——」 「へえ」  感心したような声をあげ、 「どうもこいつは、本当に定中義兄《ていちゅうあにき》の言う通りになってきそうだなア」  そう言ってうなずいた。 「言う通り?」 「いずれ、日本の柔術は、嘉納流にみんなとられちまうんじゃないかってね」 「そんなことをおっしゃっておられたのですか——」 「ならば、頼もうか。おいらに、その転び締めを教《おせ》えてやってくれ」 「このあたりで、ふたりきりになれる場所はありますか」  その言葉に、四郎が何をしようとしているのか、大竹にはすぐに呑み込めた。 「この先に、小さい神社がある。めったに人は来ねえから、そこはどうでえ」 「では、そこで——」  四郎は言った。 (六)  四郎と大竹は、その神社の境内で向き合っていた。  周囲を、杉と灌木で囲まれた神社であった。  中央に近く、小さな社《やしろ》があり、その裏手に巨大な楠が生《は》えており、社の屋根を越えて、枝がこちらまで伸びている。  ふたりとも、石畳の上に素足で立っている。  下駄は、少し前に脱いだばかりだった。  鳴きはじめたばかりの、ニイニイゼミの声が頭上からふたりに注いでくる。 「さあ、どうすればよい」  大竹が、四郎に訊ねた。 「では——」  四郎は、石畳の中央に腰を下ろしてから、そこにごろりと仰向けになった。 「このかたちで、上からわたしに十字締めを掛けてきて下さい」 「本気でやっちまっていいのかい」 「もちろんです。わたしも、転び締めしかやりません」  十字締めというのは、正面から対して、右手で相手の右襟を握り、左手で左襟を握って仕掛ける技だ。自分の腕が、手首のあたりで自然に交差するかたちになり、その手を絞《しぼ》ることによって、相手の頸動脈を締めて失神させる。  柔術の基本的な技で、この形は、嘉納流にも、揚心流戸塚派にもある。  立ったかたちでも、寝技に入って上になっている時でも、下になっている時でも、掛けることが可能な技だ。 「わかった」  大竹は、石畳の上に膝を突いた。 「いくぜ」  言うなり、大竹が四郎の上に被さってきた。  四郎は、上から身体を被せてきた大竹から逃げなかった。むしろ、自分の身体が積極的にその身体の下になるように動いた。  大竹の身体が上から被さると、その巨体の下に、ほとんど四郎の小さな身体が隠れてしまう。  攻防が始まった。  十字締めと転び締め——  互いに掛ける技が決められているとはいえ、ただその技を、真正直に仕掛けてゆくわけではない。他の技を極められる瞬間があれば、いつでもそちらに技を移行させるぞという脅しも、その攻防の中には入っている。  確かに、大竹は本気であった。  この巨体がどうしてと思えるほど、細かく仕掛けてくる。  しかも、力強い。 「む」 「む」  大竹が、上から右腕を伸ばしてきて、四郎の襟を取りにきた。  その腕を、四郎は、左脇に抱え込むようにして受け、大竹の右袖の肘あたりを左手で握った。  四郎の右腕が下から伸び、大竹の左襟を掴んだ。この時、四郎の右肩がやや浮いたと見るや、大竹は、四郎の右膝の内側に左腕を入れて、四郎の右脚を担ぎにきた。  四郎の右足の踵《かかと》が、大竹の左腕を蹴りもどし、すっ、と上に伸びた。  その瞬間——  伸びた四郎の右脚の膝が鎌のように曲がり、後頭部から大竹の首に巻きついてきた。  四郎の左足が上に伸び、大竹の首に巻きついた自分の右足の足首を、フックした。  四郎の腰が浅く浮いて、大竹の右腕が伸ばされる。  四郎の両足の間に、大竹の首と右腕、右肩が挟まれ、絞り込まれるかたちになった。 「ぐ……」  大竹が、喉の奥で声をあげた。  頸動脈が締まる。  大竹が、膝を突いたかたちで、自分の右腕を、四郎の身体ごと上に持ちあげようとした。  その時、すうっと四郎の全身から力が抜け、技が解かれた。 「ふう」  大竹が息を吐いて、左手で頸と右肩を撫でた。 「今のが、御式内の転び締めです」  石畳の上に正座をして、四郎が言った。 「こいつはたまらねえ。畳の上だったら完全に一本だろう」  大竹の言った言葉には意味がある。  それは、四郎が技を解く前、大竹が四郎を持ちあげかけたことに関係している。  四郎の身体を持ちあげて、そのまま下に落とせば、下は石畳である。そうすると四郎の後頭部が石畳にぶつかって、当然四郎は無事では済まなくなる。  大竹が、意識を失うまでの数秒の間にそれができるかどうかだが、もちろん、今はそこまで争う場ではない。  御式内は、基本的には殿中の畳の上で使用される技術であり、これが畳の上であったら、いかに四郎を後頭部から落としたとしても、その威力は半減する。  大竹の言葉には、そういう含みがあったのである。 「正座の姿勢から膝立ちになって、仰向けになりながらこのかたちに入る形もあります。横から入るかたち、後ろから入るかたちもあり、それぞれに幾つかの変化があります」 「凄えことだなア、こりゃあたまらねえ」  大竹は、石畳に正座をし、両手をついて四郎に頭を下げた。 「四郎さん、あんたに感謝するよ」  顔をあげて、大竹は言った。 「そんな……」 「おらあ、今、教《おせ》えてもらうまでは、転び締めと言ったって、どうせ、うちの技のどれかが、多少の変化をしたくれえのものだろうと思ってた。こりゃあ、別もんだ。おいらの了見の狭さを思い知らされた。それが、何よりも嬉しい……」 「———」 「ありがてえねえ、四郎さん。この歳になって、まだ、知らねえことがある。まだ、伸びることができる。柔術の奥深さを、今日はあんたから教《おせ》えてもらった……」  大竹は微笑した。  胆《はら》の太い男であった。 [#改ページ]  十三章 柔術無限 (一)  浅草の小料理屋、御多福《おたふく》の二階である。  障子窓が開け放たれて、そこに簾《すだれ》が掛かっている。  その簾に、じきに沈みそうな陽が当っている。  下駄の音や、もの売りの声、夕方が近い街の喧騒が、その簾の間から届いてくる。 「飲め、今日は祝いじゃ」  燗の入った徳利を持って差し出したのは、仲段蔵であった。 「いただきます」  太い指に、猪口を持って持ちあげたのは、中村半助であった。  良移心頭流と関口新々流、下坂道場と赤松道場——流派こそ違え、半助と段蔵の郷里は、いずれも九州の柔術王国とでもいうべき久留米であった。  同郷の者どうしである。  ふたりの前に出された膳には、それぞれ、鯛の刺し身が載っている。  古伊万里の青い染め付けの皿の上に盛られた鯛の刺し身は、まだ透明で、下の皿の色が透けて見える。  まだ、この頃は、古伊万里も生活雑器である。  警視庁武術大会で、半助が勝利した祝いの席であった。  これまでにも、幾つかそういう席が設けられたのだが、この日は、ふたりでゆっくり飲《や》りたい——と、そう言って仲段蔵が半助を誘ったのである。 「今日は、おいの奢りじゃ」  段蔵が嬉しそうに言う。  半助が、段蔵の持った猪口に、燗の入った酒を徳利から注ぐ。  ふたりが、猪口の酒を乾した。 「東京も、よか所じゃが、焼酎のないのが、いかんところじゃの」 「はい」  半助が答えた。  その半助の顔を、簾を通ってきた陽が、赤く染めている。 「簾を上《あ》ぐるぞ」  段蔵が、猪口を置き、膝で窓に寄って、簾を上に巻きあげてとめた。  東京の街並みが見える。  すぐ先が浅草寺《せんそうじ》で、その向こうに富士が見えている。  空が広い。  梅雨はすでに始まっていた。  その梅雨の合間の、晴れ間であった。  もう、暑いほどの陽射しではない。  日中は、そこそこ暑かったが、大気の温度は、ほどよく下がってきた。  窓から入り込んできた風が、段蔵と半助の頬をなぶる。 「よか風じゃ」  そう言って、段蔵が自分の席にもどった。 「どうじゃった、講道館は——」  段蔵が、空になった半助の猪口に、酒を注ぎながら言った。 「末恐ろしかもんじゃと、思いました」 「ほう、どういうことじゃ」  段蔵が、徳利を置いた。 「おいが相手ばした、宗像逸郎、まだ、二十一歳、嘉納流ば始めて、まだ二年そこそこ……」 「らしいのう」 「才もあり、本人もよほどの精進をしたのじゃろうと思われますが、それにしても、わずか二年そこそこで、あそこまでに育てることができるとは——」 「他流派の経験は?」 「ないと聴いちょります」  今度は半助が徳利を持って、段蔵の猪口に酒を注ぐ。 「最初に学んだ柔術が嘉納流で、二年余りであそこまでか——」  酒を受けながら、段蔵がつぶやく。  普通の道場や流派であったら、経験のない人間をあそこまで育てるのには、五年はかかるところであろう。 「嘉納師範の教え方に、何か特別なものがあるんじゃろうと——」 「じゃろうの」 「ただ、強くするだけではのうて、礼儀もきちんと指導しているのでござっしょう」 「うむ」  段蔵がうなずいた。 「勝てたのは、嬉しかこつでしたが、できることなら、おふじに、見ていて欲しかった……」  おふじは、半助が東京へ出てくる前に死んだ、半助の妻である。 「おふじには、苦労させっぱなしで、死なせてしまった。こんな、不器用で、柔術にもの狂いした男んとこに嫁に来たばっかりに、人並な幸福も、味わわせてやれませんでした」  半助の眼に、薄く涙が浮かんだ。 「今、おいがあるのは、おふじのおかげです……」  しんみりとなった。  陽が、ようやく半分没っしかけている。 「ところで、他に気になった相手もおるじゃろうが——」  段蔵が言った。 「はい」 「誰じゃ」 「好地を破った、講道館の保科四郎……」 「ほう」 「手があいそうで、やれば胆力の比べあいになりそうなのが、横山作次郎……」 「なるほどなあ。その横山じゃが、どうも、機会あらば、次は良移心頭流の、中村半助と手合わせをしてみたいと言うておるらしいな——」 「ほう!?」  半助の声が、少し細くなった。 「しかし、自分は、その前に試合《しお》うてみたい相手が、ひとり、おります」 「誰じゃ、それは?」 「熊本の佐村正明どんです」  半助は、窓の外の、暮れてゆく富士を眺めながらそう言った。  佐村とは、明治十五年——四年前の夏に闘って敗れている。  その時、半助は三十八歳であった。  あれから、五年が経ち、半助は今、四十二歳になっている。  肉体的にも、精神的にも、今が一番充実している。  もしも闘うのなら、まず、佐村とやりたい——  半助はそう考えていた。 「なんとか、やれんものですかのう——」  すでに陽が没っし、影となった富士を眺めながら、半助はつぶやいた。 (二) 「どうであった」  訊ねたのは、警視総監三島通庸である。  桜田門にある、総監室の、大きな窓を背にして、三島は椅子に座っている。  三島の前にあるのは、厚みのある一枚の欅材を天板に使った、机である。  その机を挟んで、三島と立って向き合っているのは、佐村正明であった。 「無事に稽古を終えました」  洋装に身を包んで、ネクタイを締めた佐村はそう言った。  佐村は、警視庁の、柔術世話係である。  半助の後、東京に出てこの役に就いた。  今も、警官たちを相手に、柔術の指導を済ませたばかりのところである。  指導が済んだ後で、時間があれば話をしたいと、稽古の前に佐村は三島に告げていた。  十五分ほどならと、三島がそれを承知して、今、ふたりはここで顔を合わせているのである。 「ところで、今日は何の話だね」  三島は、すぐに用件に入ろうとした。 「先日の、武術試合のことです」 「おお、そうだ。まだ、君には感想を聴いていなかった。どうだったね」 「いずれも、見応えのある試合ばかりでした。中でも、気になったのは——」 「講道館、嘉納流……」 「はい」 「君も、あの鬼横山か、保科と試合うてみたくなったのじゃないかね」 「それは、おっしゃる通りなのですが、本日お時間をとっていただいたのは、そのことではありましぇん」  今は、すっかり標準語が達者になった佐村も、時おり熊本《くに》の言葉が出る。 「ほう、何だね」 「中村半助しゃんのことです」 「ほう!?」 「次の武術試合のおりでも、いつでもかまいません。自分と、中村半助が試合う機会を総監に作っていただきたくて、お願いにあがりました」 「半助と?」  いったん首を傾《かし》げた三島であったが、 「たしか、君と半助は、以前に九州で試合っているのではなかったかね」 「はい」 「その時は、君が勝ったと聴いているが……」 「その通りです」 「一度勝った相手と、またやりたいのかね」 「はい」 「何故だね」 「約束ばしたからです」 「約束?」 「ふたりだけの約束です」  四年前、試合中に、半助と会話をした。  このまま首を攻められたら、悪くするともう闘えなくなる。そうしたら、負けたまま、柔術をやめねばならなくなる。  今、参ったをしておけば、次にまた試合う機会もあろう——はっきり言葉にしたわけではない。  しかし、あの時、自分と半助とは、もう一度闘う約束をしたのだと思っている。  その約束の闘いをするのに、今をおいて他にない。  警視庁武術試合において勝利し、ようやく再び佐村と闘うことのできる場所に立てた——半助はそう思っていることであろう。  そのおりのことを、短く、佐村は三島に語った。 「なるほど、そういうことか——」  三島はうなずいた。 「君の思いやりか」 「いいえ」 「中村半助——一度負けた相手に、自分からやりたいとは口にせぬ男だからな」 「あの時、勝って試合場から降りてくる時、半助と眼が合いました——」  その眼が、 「次はこの佐村だと、そう言っておりました……」  佐村は言った。 「なるほど——」 「横山も、保科も、講道館も、わたしにとっては半助とやったあとのことです」  佐村の言葉に、迷いはない。 「よい話じゃ。わかった。その話、この三島が、実現するよう、とりはからおうではないか」 「お願いいたします」  佐村は、背を伸ばしてから、深々と三島に向かって頭を下げていた。 (三)  このところ、妙な事件が起こっている。  講道館の門下生たちが、妙な男に襲われているのである。  それは、警視庁武術試合が終って、五日目から始まったものであった。  と言っても、相手がいきなり物陰から出てきて襲ってくるわけではない。後方からふいうちを仕掛けてくるわけでもなく、何人か、人数を頼みにして襲ってくるのでもない。  相手は、いつも、ひとりだ。  夜、道場生がただひとりで歩いていると、まず、その男が声をかけてくるというのである。門下生が、道場を出てくる時、すでに後を尾けているのか。それとも、稽古衣を帯で結んで肩から下げているから、講道館の者とわかるのか。  この頃、すでに講道館の門下生は百数十人になっている。 「講道館か?」  その男が出てきて、まず問うてくる。 「違う」  と答えれば、その男は無言で去ってゆく。 「そうだ」  と答えると、 「立ち合いが所望じゃ」  その男が言う。  おそろしく訛《なま》りのあるしゃべり方であった。  どこの国の訛りかはわからない。 「いやじゃ」  と言えば去る。  いやと言わねば、承知したとみなされて、その男が仕掛けてくる。 「やろう」  と言えば言ったで、いきなり仕掛けてくるというのである。  返事をした途端に、  つううっ、  と男が前に出てくる。  慌てて手を前に出し、男が着ているものをつかもうとすると、その手が払われる。払われて、空いた胸元へ、ごつんと何かがぶつかってくる。  心臓の上だ。  思わず呼吸が乱れた時には、頬に一撃をくらって、地に倒れ伏している。  やられた者が覚えているのは、せいぜいそこまでだ。覚えているといっても、どういう手順で、どう攻撃されたのかまでは覚えてない。せいぜい覚えているのは、最初に自分の手を払ってきたものが、相手の手か腕であるということくらいである。  皆が共通して言うのは、その手を払ってきたものが、おそろしく堅いものであったということだ。 「石の棒のようじゃった」  やられた者は、そう言う。  石の棒で、横殴りに手と腕を払われた——そんな感じであったという。  おそろしく痛い。  それが証拠に、払われた腕を見ると、やられた箇所にどす黒い痣ができている。  腕の骨に亀裂が入った者もいる。  肋が折れた者もいる。  また、頬骨に罅《ひび》が入った者もいる。 「何か、隠し武器でも持っているのではないか——」  そう問う者もいた。 「いや、素手じゃ。武器を持っているようには見えなかった」 「見えぬからこその隠し武器ではないのか」  そこまで言われたら、やられた方もわからなくなる。  隠し武器の中には、寸鉄《すんてつ》だの隠剣《おんけん》だの、うまく使えば、手の中に隠れて、見えなくなるものも無数にある。  講道館の門下生で、声をかけられた者は、五人。  そのうち、やられた者は、三人。  やられなかった者のうちのひとりは、声をかけられた時に断ったからだ。  もうひとりは、酒が入っていた。  何人かで道場から出た後、小料理屋で、鍋を囲んで一杯やった。  そのうちのひとりが、小料理屋を出てから、声を掛けられたのだ。  すでに、三人がやられていたのを知っていたので、仇をとるつもりで、 「おう、受けた」  そう言って、身構えたところ、相手は前に出てこない。  どうしたのか、と思っていると、 「やはり、酒を飲んでおるのか」  相手が言った。 「少しじゃ」  そう答えると、相手は、 「よかったな、酒を飲んでいて」  そう言って、すうっと退がった。 「まて——」  そう声をかけても、相手は止まらなかった。  そのまま背を向けて、暗がりの奥に去っていってしまったというのである。  奇妙な人物であった。  いつも、暗がりから声をかけてきて、あっという間に、道場生を倒して去ってゆく。  顔も、年齢もわからない。  ただ、背はそれほど大きくなく、しかし、岩のようにずんぐりした身体つきをしていたという。いったい、誰がそのような真似をしているのか。 「戸塚道場の者ではないか——」  そう言う者もいた。  警視庁武術試合で負けた腹いせに、講道館の者ばかりをねらっているのであろうと。 「まさか——」  と、そう言ったのは富田常次郎である。 「西村定中は、そのようなことを、弟子にさせる人物ではない」 「わからぬぞ」  そう言ったのは、横山だ。 「西村定中がやれと言わずとも、あれだけの人数がいる中には、こういうことをしてくる人間もいるかもしれぬ——」 「横山、憶測でものを言うてはならぬ」  と常次郎が言うのへ、 「わかるさ。倒してみればな」  横山は言った。 「おもしろいことになってきたのう。早《はよ》う襲われたいものじゃ」  鬼横山は、むしろ、この事態を悦んでいるようであった。  噂を耳にした治五郎は、 「相手をするな」  と、道場生を戒めた。  横山は、表向きは、治五郎に従う風を見せていたが、富田や山下には、 「しかし、向こうから襲ってくるのであっては、どうしようもないであろうよ」  そう言って、白い歯を見せた。 (四)  その晩——  横山は、ただ独りで講道館を出た。  富士見町から、西へ——  横山はゆるゆると歩いてゆく。  外濠《そとぼり》を渡って、神楽坂、新宿の方向である。  明治十九年、東京といっても、まだまだ帝都内には雑木林や畑などが多かった。そういう人家の少ない方へ、横山は足を向けたのである。  警視庁武術試合が終ってから半月余り——  しばらく前に、梅雨には入っていたが、この日、雨は降っていなかった。  所どころにある田には、すでに苗が植えられ、そこで、繁《しげ》く蛙が鳴いている。  空に、星が幾つか見えるものの、星明りと呼べるほどの明るさはない。大気全体が、水気を大量に含んでいて、それが、暗い星の光を隠してしまっているのである。  ただ、半月に近い歪《いびつ》な月が出ていて、その月明りで、わずかに周囲のもののかたちが見てとれるだけであった。  人家が途切れて、田の道へ出た。  左手が田で、右手がこんもりした社《やしろ》の森だ。  背後にも、すぐ向こうにも、人家の灯りが見えている。ここだけ、しばらく人家がない。  田の水と泥の匂いが、夜気に溶けている。  周囲に、蛙の声がかまびすしい。  宙を飛ぶ蛍の光が、ふたつ、みっつ——  社の森が途切れるあたりに、石の地蔵がぽつんと立っている。  その石の地蔵を数歩通り過ぎたところで、横山は足を止めた。 「そろそろどうじゃ」  横山はつぶやいた。 「このままゆくと、また、人目のあるところじゃ……」  右手を懐手にして、横山は悠々と滲んだ月を見あげている。 「知っていたか……」  横山の背後から声が聴こえてきた。  しかし、横山の背後に人影はない。  まるで、今、通り過ぎてきた石の地蔵がしゃべっているようであった。 「やるにはよい場所じゃ」  横山は、懐手をしたまま、後方を振り返った。 「確かに……」  ぼそりと声が響いた。  しかし、人影はない。  一歩、二歩——ゆるり、ゆるりと横山は足を前に踏み出して、草履を脱ぎ、素足で地に立った。  湿り気を含んだ土は、ひんやりと冷たかった。 「おまえ、これまでの奴と違う……」  声が、闇から響いてくる。 「ふふん」  横山は、唇の端に、強い笑みを浮かべた。  横山が睨んでいるのは、地蔵であった。  いや、その地蔵の背後の暗がりだ。  その地蔵の背後に、何か、黒い影のようなものがうずくまっている。後ろの、社の森の闇が、そこにわだかまって凝《こ》ったような影であった。  ずんぐりとした、岩のような影だ。  何者かが、地蔵の背後で背を丸めてうずくまり、両膝を抱えて、ことさらに身を縮めているようであった。 「多少は、骨のありそうな奴じゃ……」  その黒い影が、ぐつぐつと煮えるような声で言った。 「嬉しいか」  横山が問う。 「ああ」  声が言う。 「おれもじゃ」  横山が、夜目にもそれとわかる白い歯を見せた。 「保科四郎というのは、おまえか……」 「違う」 「違うのか……」  影の声に、少し、がっかりしたような響きがある。 「奴は今、千葉じゃ」 「千葉?」 「戸塚道場に行っている」 「ふうん」 「この横山では、不足か?」  横山は言った。 「横山? おまえ、横山作次郎か……」 「おれの名を知っているか」 「力と糞度胸だけと聴いている」  言われた横山は、おもしろそうに、くつくつと笑った。 「その通りだな……」  笑みを含んだ声で、横山はつぶやいた。 「噂だ。しかし、噂とはまた少し違うようじゃ」 「何が違う?」 「もっと、おもしろそうじゃ」 「褒めたのかい」 「そうじゃ」 「貴様、名は?」 「梟《ふくろう》じゃ」 「何故、講道館をねらう?」 「………」  返事はない。 「まあいい。少し、しゃべりすぎたな、おれたちは——」  横山の腰が、浅く落ちた。  懐に入っていた右手が、ここでようやく外へ出た。 「そうだな……」  影が答えた。  それきり、横山も、影も、口を開かなくなった。  蛙の声が、煩《うるさ》いほど横山の周囲を包んでいる。  声ばかりでなく、影の気配までもが消えていた。  地蔵の後ろに、まだ黒い影がうずくまっているようでもあり、もうそこに影はいないようにも思えた。だとするなら、いつ、移動したのか。いや、はじめから、そこに人はいなかったようにも思える。  横山は、ただ、静かに呼吸を繰り返している。  蛍が飛んで、青い光を点滅させながら、横山と地蔵の間の宙を横ぎった。  と——  ふいに、地蔵の背後の闇に、ふわりと黒い影が浮きあがった。  浮きあがった時には、その影はさらに高い闇に飛んで、黒い怪鳥《けちょう》の如く横山に向かって、宙を疾ってきた。  その影が、地から跳び、さらに地蔵の頭を蹴って、横山に向かって襲いかかってきたのである。  地蔵の背後にうずくまっていた時より、影の大きさは倍以上にも膨らんで見えた。  その、飛んできた影を、一瞬、横山は宙で捕えようと手を伸ばしかけたが、それをやめて頭を下げた。  それまで、横山の頭のあった場所を、凄い勢いで何かが疾り抜けた。  それだけで、横山は、頭頂部を鋭い刃物で切り裂かれたような気分を味わっていた。  横山は、さらに後方に跳んだ。  その顔のすぐ前を、刃風《はふう》に似たものを残して、何かが真横へ通り過ぎた。横山の鼻先だ。  空気の焼ける焦げ臭い匂いを嗅いだような気がした。  横山の全身の体毛が逆立っていた。  薄い氷が、背に張りついたようであった。  後方に跳んで、両手を前に出し、横山は腰を落として大きく肩を上下させていた。  たった、これだけの動きで、息があがってしまったのだ。  黒い影が、道の中央の土の上にうずくまっていた。  高さは、横山の臍《へそ》までもない。  ぞくり、ぞくりと、横山の背骨を、太い蛇のようなものが次々と這い昇ってゆく。  これほどの相手であったのか。  そう思った。  どこかの腕自慢の柔術家が、警視庁武術試合で名をあげた講道館がどれほどのものか、腕試しにちょっかいをかけてきているのかと思っていた。  そうではなかった。  この相手、一年、二年、柔術をやっただけの人間が敵う相手ではない。  それに、今、影が宙から放ってきた技、それは、蹴りであった。この影は、宙に浮いた状態で、二度も、蹴りを放ってきたのだ。  強烈な笑みが、横山の唇に浮いていた。 「柔術ではないな」  横山は言った。 「唐手《トウディー》じゃ……」  影が、低い声でつぶやいた。 「唐手《トウディー》?」 「知らんのか?」 「知らん」 「これから知ることになる」  影が、囁いた。  囁いた途端に、  つううっ、  と、影が地を這うように動いた。  手で、掴める高さではない。  逃げるか!?  上からおおい被さるか!?  横山は逃げなかった。  自分から間合を詰めた。  上から影に被さろうとしたその瞬間、左脚の脛を、堅い棒のようなもので払われた。  ごつん、  と音がした。  倒れない。  横山が、倒れずに踏んばったところへ、下から、足の間に蹴ねあがってきたものがあった。  足だ。  影が、蹴足《けぞく》で、睾丸を蹴り潰しにきたのである。  身体を、横に開いてその蹴りをかわすと、影の身体が膨らんだ。睾丸を蹴りにきた足が、そのまま上に跳ねあがってきて、横山の顎を砕きにきた。  のけぞるようにして、それをかわした。  宙に疾り抜けた足を、影がもう一度もどす、そこが勝負であった。  立った黒い影に向かって、横山は足を踏み出しながら、襟を掴みにいった。  伸ばした左腕を、石の棒のようなもので、がつんと横に払われた。  これがそうか。  道場生たちが話していたやつだ。  こらえ、かまわず、襟を掴む。  引き寄せる。  しかし、引き寄せるまでもなかった。  すうっと、相手の身体が自ら寄ってきたのである。  頭を下げる。  下げたその頭の上部を擦りながら、堅いものが疾り抜けた。  拳だ。  影は、拳で頭を打ちにきたのである。  襟は、放さなかった。  右手で、さらに掴みにゆくと、ごつん、と胸に衝撃があった。  肘であった。  肘を、胸に打ち込まれたのだ。  みしり、と、肋《あばら》が軋んだ。  肋が一本、折れたかもしれなかった。  警視庁武術試合で、照島にやられたところが、まだ、治りきっていない。そこをやられたのだ。  さすがに、 「うっ」  と声が洩れた。  しかし、掴んでいた。  どこを掴んだかは、もう考えていない。  相手の着ているものを、両手で掴んだ。  もうこっちのものだ。 「りゃああっ!!」  腰を入れ、裂帛の気合を込めて、横山は、影の身体を投げた。  影の身体が、逆さになる。  それを、頭部から地面に叩きつける。  しかし、軽かった。  相手の身体が、である。  理由は、投げた時に、横山にはわかっていた。  影が、こちらの力にさからっていないからだ。  それならそれでいい。  このまま、頭から地面に落としてやるまでだ。  影の脳天が、地面に叩きつけられたかどうかというその時、横山は、頭部に衝撃を受けていた。  投げられながら、影は、足の甲を引っかけるようにして、頭に当ててきたのだ。  影の身体が、くるりと丸くなって地にぶつかる衝撃を殺し、さらに転がりながら、向こうへのがれようとする。 「逃《のが》さぬ」  横山が、影の身体を追って、その上に被さってゆく。  くるりくるりと、影が転がりながら逃げてゆく。  上に被さったその瞬間に、横から|顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》を叩かれた。  石の棒で、突かれたような衝撃があった。  何だ、これは?  影は、何か武器でも身につけているのか。  横山が一瞬ひるんだその時、横山の腕をのがれて、影が立ちあがっていた。  ようやく、横山は影と向きあった。 「貴様、何か、武器を持っているのか!?」  横山が問うと、 「持っている」  影が答えて、右拳をぬうっと前に突き出して、 「これじゃ」  その拳を開いた。  その手の中には何もない。  空手であった。  節くれだった、太い指。  小岩のような掌《て》。  月明りにも、それがわかる。 「わが武器は、素手のこの掌じゃ」  影は言った。  その拳が、自分の|顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》を今突いたのか、と横山は思った。  相手は、仰向けになった状態で、その拳を打ってきた。当然、腰も入っておらず、体勢は十分ではない。にもかかわらず、強い衝撃があった。  もしも、立った状態で、十分な体勢で打たれていたら、頭の鉢《はち》を割られていたかもしれない。  おそろしい拳であった。  おそろしい技であった。  唐手《トウディー》といったか。  手と足の、当て身に特化した術《じゅつ》のようであった。  柔術には——むろん、嘉納流にも、当て身がないわけではない。ある。手で打つ、拳で打つ、足で蹴る——そういう技も術もある。  しかし、それは、あくまでも投げ技に入るための仕掛けであり、術であった。当て身で相手を崩す。崩した後、投げて、締める。関節を極《き》める。そういった流れの一部として、当て身技があるのだ。  当て身の急所——人中《じんちゅう》や鳩尾《みぞおち》、吊り鐘《がね》などもひと通り心得ており、そこへの当て身で勝負を決っすることもむろんあるが、柔術の主体は、あくまでも、投げ、締め、極めである。  相手を固めて動けなくするための過程の中に、当て身がある。  しかし、この唐手《トウディー》は、当て身が主体の術のようであった。始めから最後まで、当て身が術の主体であり、当て身のために、足を掛けたり、相手の身体を崩したりという技が存在しているらしい。 「おそろしい技じゃのう」  横山は言った。 「世の中に、このような術があるとは、知らなかったわい」  おそらく、この術や技を可能とするために、凄まじいまでの鍛錬を、手や足に加えたのであろう。拳や、足を、石のように硬くするために、どれだけの稽古を積んだのか。 「おもしろいのう」  言いながら、横山は腰を落とした。 「まだ、ぬしが、口が利ける間に訊ねたいことがある」  影が言った。 「何じゃ」 「ぬしは、御式内《おしきうち》を使うのか?」 「御式内じゃと?」 「使うのか、使わぬのか?」  横山も、すでに、御式内の名は知っている。  保科四郎が、警視庁武術試合で使って以来、講道館でも、その技を学ぶ者が出てきた。  自分が、治五郎に敗れた技も、御式内の転び締めと今はわかっている。  その転び締めを治五郎から学び、多少は自分も使うこともできるが、使うというほどのものではない。  自分の性に合っているのは、投げ技であった。 「使わぬ」  横山が言うと、 「保科四郎は使うのであろう」  影が問うてきた。 「使うが、御式内が何だというのじゃ」 「御式内を見たい」 「なに?」 「御式内は、わが敵《かたき》じゃ」 「なんだと!?」  横山が声を高くした時、向こうに見えていた灯りの方から、人声が届いてきた。  その人声が、近づいてくる。  二、三人の人間が、話をしながらこちらへ向かって歩いてくるらしい。提灯と思える灯りが、ちらちらと揺れながら近づいてくる。 「横山」  影が言った。 「何じゃ」 「いずれ、邪魔の入らぬところで勝負じゃ」 「おう、いつでもよい」  横山が、答えると、影の身体が、すうっと地に沈んで、次の瞬間、ふわりと宙に浮いた。  その影が、地蔵の後ろの暗がりに消え、背後の繁みが、ざわっ、と一度だけ音をたてた。  後は、音も気配もない。 (五)  横山は、自分がその影と闘ったことを、黙っていた。  ただ、講道館の門弟を襲う男の出現は、以来、ぴたりと止んでいた。 「先生——」  横山が、治五郎に声をかけたのは、それから三日後のことであった。  ちょうど、昼の稽古が終って、治五郎が自室で休んでいる時であった。 「どうした、横山——」 「ちくとうかがいたいことがあるのですが……」  治五郎は、文机の前に座して、「朝日新聞」から依頼された英文の翻訳作業の続きをしかけている時であった。 「何だね」  治五郎は、横山に身体を向けて、そう言った。 「先生は、トウディーというものを御存知ですか」 「それが、琉球の唐手《トウディー》というものなら、耳にしたことがある」 「それは、どういうものなのですか」 「琉球の武術だ」 「琉球の武術?」 「琉球拳法と呼んでもよいかもしれぬな」 「拳法と言えば、支那の……」 「琉球は、昔から、本土よりは大陸との交易の方が盛んであった土地だ。大陸から入ってきた武術が、彼《か》の地で練りあげられたのが唐手《トウディー》であると聴いている」  治五郎は、横山を見つめながら言った。  四年前——まだ、横山が講道館に入る前、武田惣角という人物がやってきて、その唐手《トウディー》を使ったことがある。 「琉球はな、長い間、薩摩に支配されていた国じゃ。税の取りたても厳しかった。で、農民が反乱を起こさぬよう、武器を持つことを禁じられた——」 「刀狩りですか」 「そういうようなものだな。それで、琉球で素手の武術が育ったのだ」  治五郎の言葉を、神妙な面持で、横山は聴いている。 「武器と言えば、見た目は武器とは見えぬような農具や、棒じゃ」 「刀や槍は持てなかったというわけですか——」 「そうじゃ。代りに、彼らが武器としたのが、素手の拳や、足じゃ」 「ほう……」 「手や、足や、指を徹底して鍛える。拳を岩よりも硬くする」 「岩よりも——」 「達人ともなれば、瓦《かわら》を十枚重ねて、拳の一撃でたやすく砕くことができるらしい」 「瓦の十枚くらいなら、自分も割ることができると思います」  横山が言うと、治五郎は笑った。 「確かにおまえの力があれば、瓦の一〇枚は割れるであろう。しかし、次の一〇枚、さらに次の一〇枚はわからぬ——」 「何故ですか?」 「人の拳はな、硬いものを叩けば、拳の方が破壊されてしまうからだ。二度目、三度目となれば、拳の方が使いものにならなくなるであろう」 「そうですか——」 「彼等は、その鍛えた拳で、何度でも瓦を割ることができる。名人は、その指一本で、瓦を突き割ることもできるらしい——」 「指一本で……」 「まあ、千日、万日の、気が遠くなるような鍛錬と精進の日々を重ねて、ようやくたどりつける境地であろう」 「勝負で言えば、当て身をもって決っする技が武器ということでしょう」 「うむ」 「先生は、そのような相手と闘う場合、どのようなやり方で試合われますか?」 「逃げるさ」  あっさりと、治五郎は言った。 「逃げられぬ時は」  横山は喰い下がった。 「武器があれば、その武器を持って。なければ、そこらに落ちている石でも棒でも拾って闘えばよい」 「そうはいかぬ場合は?」 「そうはいかぬ場合とは、どのような場合じゃ——」 「たとえば、互いに素手で闘うという約束のもとで試合うようなおりです」 「それこそ、私が、日々、おまえたちに教えていることではないか——」 「何でしょう?」 「柔《やわら》さ」 「柔?」 「己れの内の、柔《じゅう》をもって剛を制するということだな」 「急に、話が難しゅうなりました」  頭を掻いた横山に、 「おい、横山」  治五郎が、真顔で声をかけた。 「は!?」 「何があったのだ」 「何が、と申しますと?」 「近頃、講道館の門弟に、仕掛けてくる者がいるそうではないか」 「承知しております」  これは、治五郎と横山にとっては、あらためて問うことでも答えることでもない。  講道館では、このことが何度か課題にのぼっており、治五郎自身が、横山を含めた門下生たちを集め、その前で、 「関わらぬように」  と言い渡したことであった。 「会うたか、横山」 「は!?」 「その、仕掛けてくる相手、いずれも当て身で講道館の者たちを倒している——」 「そのようですな」 「手を合わせたか、横山」 「申しわけありません、先生——」  横山は、いきなり、畳に両手を突いて、頭を下げた。 「先生に嘘を申しあげるわけにはいきません——」 「だから、何だと?」 「ですから、ここでは、そのことについては何も申しあげずにいるということで、お許しいただきたいのです——」  横山が、畳に額を押しあてた。 「横山よ」  治五郎は言った。 「は」 「講道館は、今、危《あやう》い」 「危い?」  横山は、顔をあげた。 「先般の、武術試合で名を知られたかわりに、多くの古流から、羨望の対象とされている」 「———」 「羨望は、たやすく憎しみに代る」 「はい」  横山は、上体を起こした。 「わたしが、他流との勝手な試合を禁じていることの理由のひとつは、そこにある」 「そこ?」 「同じ門下で、勝ったの負けたのは、門下の中で対処できるが、他流と問題が起これば、時に、血で血を洗うことになりかねぬ。ならずとも、大きなしこりを残す」 「先般の試合での規則のことですか」 「それもある」 �投げも一本�  この警視庁武術試合での試合規則に、古流の一部から不満の声があがっているのである。 「他流との闘いは、勝っても負けても遺恨を残しかねぬ。互いに信頼関係を築いた後ならよいが、警視庁のような機関が開催するような大会以外での他流との闘いは、極力避けねばならぬ——」 「しかし、噛みついてくる犬は、追わねばなりません」  顔をあげた横山の眸《め》を、治五郎は正面から見つめた。 「横山よ」 「はい」 「おまえは、よい漢《おとこ》じゃ」 「自分がでありますか」 「うむ」  治五郎はうなずき、 「そして、強い」  そう言った。 「人望もある。新しく入門した者たちも、おまえによくなついている」 「自分も、あいつらのことは、可愛く思うちょります」 「私の顔でなくてもよい」 「は?」 「この治五郎の顔でなくともよい。事を起こす時は、その彼らの顔を思い出せ」 「———」 「その上で、動かねばならぬとおまえが思うなら、動けばよい」  治五郎は、横山を見つめたまま言った。 「はい」  横山は、うなずき、治五郎に向かって頭を下げた。 (六) 「四郎よ」  横山が、保科四郎に声をかけたのは、治五郎と会った同じ日の夕刻であった。  稽古を終えた道場生たちが帰った後だ。  道場の中央——畳の上に胡坐をかいて、横山は、窓際に立って、上半身裸となり、手ぬぐいで汗をぬぐっている四郎へ眼を向けている。 「何じゃ」  四郎は、開け放した窓から、視線を横山に向けた。  窓から入ってくる風が、四郎の背から、汗と熱を奪ってゆく。  その風と一緒に、蝉の声が道場の中に入ってくる。  ちょうど、ふたりきりであった。  山下と富田は出かけていて、夕食までにはもどってくるはずであった。 「おんしゃあ、誰かから恨みを買《こ》うちょるということはないか——」 「恨み?」  四郎の、汗をぬぐっていた手の動きが止まっていた。 「そうじゃ」 「わからん」  四郎は言った。 「どこかで、買うておるやもしれん。おらぬかもしれん。しかし、覚えはない——」 「本当か」 「ない」  そう答えた四郎は、思い出したように、 「あるかもしれぬ」  そう言いなおした。 「戸塚道場か——」 「そうだ」 「その筋ではない」 「なら、覚えはない」  四郎の手が、また動き出した。  汗は、ぬぐってもぬぐっても、体内からすぐに湧き出してくる。  四郎は、また、窓へ顔を向け、 「何故、そのようなことを訊くのだ」  背を向けたまま言った。  その問いに、横山は答えない。 「おまえでなくともよい。おまえがやっている御式内じゃ」 「御式内?」  四郎の顔が、また、横山を向いた。 「そうじゃ」 「御式内がどうしたのだ」 「御式内を使う者が、どこかで、誰かに恨みを買うようなことをしたという話は、知らんか——」  御式内を使う者と言えば、四郎は、自分をのぞけば、他にただひとり——いや、ふたりしか知らない。  四郎の師である保科近悳と、近悳が御式内を教えたという、武田惣角のふたりである。 「何故、そのようなことを訊く」  四郎は言った。  そう問われて、なお訊ねたければ、横山も黙っているわけにはいかない。 「これまで、黙っていたことがあるのだがな。実は、例の男に会うた」 「例の男?」 「講道館の門下生に、野試合を仕掛けてくる相手じゃ」 「会うたのか!?」  また、四郎の手が止まった。 「会うた」 「いつじゃ」 「三日前じゃ」  三日前と言えば、四郎が千葉の戸塚道場に出かけていた時である。 「その男がな、御式内が敵《かたき》じゃとそう言うたのさ」  横山は、四郎に三日前の晩に起こったことを語った。 「そんなことが……」 「よいか。これは、誰にも言うなよ。他流と私闘するのは禁じられている。話したのは、ぬしだけじゃ、四郎——」  横山は、そう言って、昼に、治五郎とした会話のことも語った。 「琉球の唐手《トウディー》か——」  言った四郎の眼が光った。 「その眼は何じゃ、四郎——」 「———」 「ぬしもやりたくなったか」 「いいや」  四郎は、小さく首を左右に振った。  すでに、四郎の身体からは汗がひいていた。  横山は、右手を、自分の胸にあてた。 「まだ、肋がうずいちょる。照島にやられたところに、また、罅が入っているかもしれぬ」  痛みを覚えているというよりは、嬉しそうに、横山は言った。 「どうじゃ、四郎、御式内を使う者が、どこかで、琉球拳法の恨みを買うようなことをしたという話は聞かぬか——」  横山は言った。  御式内を使う者が、琉球拳法の恨みを買うようなことをしたとするなら——  自分ではない。  おそらく、近悳でもないであろう。あの近悳には、そういう機会はなかったはずだ。  考えられるとしたら武田惣角ではないか。  もとより、これは推測である。根拠と言えるほどのものがあるわけではない。  自分にしても、どこかで、知らぬうちに誰かの恨みを買っているかもしれない。近悳にしても、どこかでそういうことがあった可能性はある。いや、可能性だけなら、自分たち三人以外に、御式内を使う人間がどこかにいることも考えられる。  しかし、いずれにしろ、可能性のみで返事をするわけにはいかなかった。 「そういう話は、耳にしたことがない」  四郎は、正直にそう言った。 「そうか」  横山は、うなずいた。  それ以上問おうとはせず、 「いずれにしろ、次に会うた時は、決着をつけねばならぬ相手じゃ。肋の二本も折らせてやって、投げ、締めて落とすか、腕の一本も折ってやらねばならぬ……」  横山は、四郎に背を向けていた。 [#改ページ]  十四章 唐手 (一)  西村定中と、大竹森吉は、夜風の中を歩いていた。  風の中に、酒の匂いが漂っている。  西村定中が、微醺《びくん》を含んでいるのである。  道場から少し離れた小料理屋で、西村定中は、軽く酒を身体に入れている。定中の場合、軽くというのは、まず、酒を一升くらいのことだから、常人にすれば、かなりの量の酒が入っていることになる。  定中が、向島小梅《むこうじまこうめ》で柔術を教えていた頃、あれこれと世話になった、伊藤正太郎が久しぶりにやってきて、話し込んでいったのである。  その宴が終る頃を見はからって、道場から大竹がむかえにやってきたのである。  定中は、大竹の姉の都賀が嫁した相手であり、大竹にとって、定中は義理の兄になる。  大竹は、都賀に頼まれて、定中を家まで送り届けることになっていた。酒を飲みすぎたからといって、定中が乱れたりすることはないのだが、この頃では、ひと晩に五升を超えると、朝に起きられず昼まで寝てしまうことがしばしばであった。  翌日に、定中は顔を出さねばならぬところがあり、それで大竹に定中のむかえを頼んだのである。  西村定中、四十一歳。  大竹森吉、三十四歳。  共に、揚心流戸塚派の重鎮であった。  ほろ酔いで定中は歩いているが、大竹には酒は入っていない。 「都賀《あれ》も、よくできた女だが、気がまわりすぎるな」  定中は、そこそこに気分はいいらしい。 「おまえがむかえに来たのはちょうどいい。どこかに寄ってゆくか——」  もう一杯やってゆこうかと定中は大竹を誘っているのである。  大竹も酒は嫌いな方ではないが、都賀に頼まれた手前、 �行きましょう�  とはすぐに返事ができない。  大竹が困っているのを見て、定中は声に出して笑った。  定中は、ゆるゆると歩いてゆく。  定中は、常の通り、絣《かすり》の着物に袴を穿き、山高帽を被っている。  右手には、太い、南天のステッキを握っている。 「ところで、好地が自分で立てるようになったらしいな」  定中が言った。 「ええ、便所くらいには、自分で行けるようになりました」  話題がかわって、少しほっとしたような響きが、大竹の声にはあった。 「保科四郎が来てから、急に元気になったようだな」 「あれが、何かいいきっかけになったようで……」  四郎が、戸塚道場を訪れてから、すでに七日が過ぎていた。 「医者も、そのうちにゃ、何でも自分でできるようになるだろうと言っておりやした」 「その保科だが、何か教えていったようだな」 「御式内を……」 「大東流のお留め技じゃな」 「転び締め、膝行《しっこう》して左右の横払い、前落とし、向こう返し——いくつか教えられて、今、道場で門下生に教えております」 「ふうん……」 「義兄《あにき》、こいつはなかなかおそろしいことですぜ」 「おそろしい?」 「講道館がです。自分のところの技を、ああも簡単に、他所《よそ》の流派の者に教えてしまうところです」  自分がどういう武器を持っているか、相手が知らない——これが、未知の武器を持つことの最大の強みである。自分の知らない技を仕掛けられたら、つい、それに掛かってしまう。  しかし、相手の武器——相手がどういう技を使ってくるかがわかれば、それに対処することができる。つまり、その時、武器は武器としての強みを失ってしまうことになる。  だから、どの流派でも、奥義《おうぎ》は簡単には人に教えないし、教える時には金《かね》をとって伝授するのである。  技、奥義は、どの流派でも最大の企業秘密であるといっていい。 「それを他流に平気で教えるってえことは、よほど自信があるか——」 「自流も他流もないということであろうよ」 「どの流派も講道館流を使うようになったら、どの流派も講道館になっちまうってえことです」 「その通りだ、森吉」  答えた定中が、足を止めていた。  大竹も足を止める。  一度、二度、呼吸を繰り返してから—— 「わかるか?」  定中が、低い声で大竹に問うた。 「はい。あっちも止まりやしたね」  大竹が、横目で背後をうかがうようにして、そう言った。 「戸塚道場の、西村定中、大竹森吉だな……」  背後から、声が響いてきた。 「そうだが……」  大竹と定中が、後方を振り返る。  何もない通りが見えていた。  人影はない。  しかし、左手が、大きな商家の土塀になっていて、そこに、月が作った影ができていた。そこに、何か、黒いものがわだかまっている。 「名は?」  定中が問う。  答えはない。 「名は?」  定中がさらに問うと、 「梟じゃ……」  土塀の影の中から声が聴こえてきた。 「おい、梟とやら、姿を見せろよ。このままじゃ、話がしにくいぜ」  大竹が言うと、のろりのろりと、人影が月光の中に出てきた。 「定中、酒が入っているな」  人影——梟が言った。 「ただの一升じゃ」  定中が言う。 「近頃、戸塚道場では、御式内を教えているらしいな……」 「耳が早いな」  大竹が答えた。 「おまえでいい」  大竹に向かって、影が言う。 「おれ?」 「手合わせをしたい」 「何のためじゃ」 「理由がいるのか、大竹」  大竹は、少し沈黙し、 「そうか、理由はいらぬか」  ぽつりとつぶやいた。 「おまえが強い、それが理由じゃ」 「なるほど……」  大竹が、太い唇に笑みを浮かべた。  強いとも、弱いともつかぬ、舐めるような気配が、ぞろりぞろりと、定中と大竹の頬に触れてくる。  獣が、襲う前の相手の味を確かめているような感じであった。 「このところ、講道館の門下生が、何者かに野試合を仕掛けられているらしいな……」  大竹が言うと、 「おれさ」  梟が囁くように言った。  定中が口を開く。 「おれも、多少はやるのだが、この定中では不足か?」 「酒が入っている」 「なに!?」 「あとで、負けた理由を酒のせいにするのでは、定中の恥になるであろう」 「いらぬ心配じゃ」  言いながら、つううっと定中が前に出ていった。  梟は逃げない。  定中は、そのまま間合に入って、 「かあっ!」  持っていたステッキで、梟に向かって打ち込んだ。  鈍い音がして、定中のステッキの先が、折れてくるくると宙に飛んでいた。  からん、  と音をたててステッキの先が地に転がった。  定中は、先の折れたステッキを右手に握ったまま、 「拳で打ったか!?」  そう問うていた。  必殺の気合を込めて打ち込んだわけではない。  相手を試すつもりで打ち下ろしたステッキであった。それを、下から拳を当てられて折られたのだ。 「本気でないのなら、人に打ちかかるものではない」  梟が言った。 「俺《おい》らが相手をしよう」  大竹が前へ出た。  がらり、ごろりと下駄を脱ぎ捨てる。 「恨みはない。ぬしが保科から学んだという御式内を試したいだけじゃ」  梟が言った。 「御式内も何もねえよ。この大竹森吉が、おまえさんの相手をする。それだけだ——」  言いながら、大竹は歩いてくる。  止まらない。  そのまま、無造作に間合に入ってゆく。  まるで、柔らかな風のようであった。  すうっ、  と梟が退がる。  大竹は、同じ速度で足を前に出し、また間合に入ってゆく。  梟が退がる。  重みのある肉の圧力が、梟を押しているように見える。  すうっ、  すうっ、  と、梟がさらに後方に退がる。 「やりにくいな」  梟が言った。 「嘉納流の横山の方が、やり易かった」 「あの男とやったのかい」  立ち止まって、大竹が言う。 「やった」 「どっちが勝った?」 「分けじゃ」 「分け?」 「邪魔が入ったのだ」 「そうか」  言って、また、大竹が前に出る。  梟が退がる。  大竹が前に出る。  梟が、先ほど出てきた土塀の影の中に退がりながら入ってゆく。 「誘われてるぞ」  定中が声をかけた。 「承知してますよ」  大竹が前に出る。  梟が、土塀を背にして立ち止まった。  大竹は、止まらずに、さらに前に出てゆく。  梟の身体が、土塀の影の中で、ふわりと浮きあがった。  次の瞬間、梟が、いきなり前に出てきた。  いったん宙に跳び、後方の土塀を蹴って、前に飛んだのだとわかった。  黒い颶風《ぐふう》のように、大竹の顔に向かって何かが正面からぶつかってきた。  それが、梟の足とわかったのは、身を沈めてそれをかわしてからであった。  梟が、大竹の頭上を越えて、地に再び立った。  梟と大竹の位置が入れかわっていた。  土塀を背にして立っているのは、大竹の方であった。 「変った技を使う……」  大竹は言った。 「よくかわしたな」  梟が言った。  先ほど、定中が打ち込んだステッキを拳で折るのを見ていなかったら、今の攻撃を受けていたかもしれなかった。  大竹は、土塀を背にしていたが、大竹にとっては、それは関係がない。  いずれにしろ、前に出るからだ。 「行くぜ……」  つぶやいた時には、大竹はまた前に足を踏み出していた。  まず、組む。  組んで、倒しにゆく。  梟の術が、当て身を主武器としているのはわかった。  相手が手足を使って当ててくるのに合わせてやりとりをしたら、喉でも人中でも、いずれはそこを突かれてしまうであろう。  ならば、当てられてもよいから、まず組むことであった。  二歩目で、大竹は前に出る速度を変えた。  いっきに間合を詰めようとした。  梟が退がるのより速く前に出る——  しかし、梟は退がらなかった。  逆に、前に出てきた。  腹に衝撃があった。  凄まじい衝撃であった。  火薬が、そこで破裂したようであった。  足で、梟が腹を蹴ってきたのだ。  一瞬、呼吸が止まった。  岩を、そこへぶち当てられたような気がした。  しかし、それでも、大竹は、逃げようとするその足を、両手で掴んでいた。  掴んで、驚愕した。  脹脛《ふくらはぎ》が、硬い。  異様な筋肉であった。  そして、脛が、石のように硬い。  石を削り出して作ったような足であった。  足の甲、指、それらのものもごつごつとして、亀の甲羅に触れたようであった。  このような足の者がいるのか。  大竹もまた、柔術をやっている人間である。  人が、鍛錬をすれば、どれほどの筋肉がつくか、どれほどの肉体ができあがるのかわかっている。その実例も周囲で見ている。  しかし、この肉体は特別であった。  おそらく、足だけではあるまい。  この男の全身が、このようなのであろう。  いったい、どのような鍛錬をすれば、このような肉体を作ることができるのか。  それは、感動と言ってもよかった。  しかし、今は、感動している時ではない。  投げにゆく。  持ったのは、梟の右足だ。  軸になっている左足を刈《か》りにゆく。  刈って、倒しながら、梟の頭を地面に叩きつける。 「かああっ」  刈れなかった。  刈りにいった大竹の右足が、空を薙《な》いでいた。  その時、大竹の右の|顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》に、衝撃があった。  今、自分が刈ろうとした梟の左足であった。梟は、右足を大竹の両手に預けたまま、左足で跳んで、大竹の頭部を蹴ってきたのである。  くらっ、  ときた。  しかし、意識が飛んだのは、ほんの一瞬だ。  右足を抱えている分、蹴りの威力が半減している。  片膝を突いたところで、覚醒した。  顔に向かって、何かが飛んできた。  手でそれを払う。  その手が、はじかれた。  めちっ、  と、鼻の潰れる音がした。  自分の鼻だ。  しかし、手で軽く払っているから、意識を失うほどではない。  梟が、膝を顔に当ててきたのだ。  もどる前に、梟の膝を抱えた。  強引に、倒す。  股間に、衝撃があった。  倒されながら、梟が睾丸を蹴ってきたのだ。  しかし、睾丸は、股の間から、奥に押し込んである。  吊り鐘隠しである。 「やっと捕まえたぜ」  顔を、血まみれにしながら、大竹は嗤った。  大竹が、上になっている。  鼻から、ぼたぼたと、血が梟の顔の上に落ちる。  近くで見れば、まだ、三〇代前半のようである。  三十一、二歳であろうか。  と——  信じられないことがあった。  梟が下から、大竹の右腕を取ってきたのである。  大竹の太い首に、梟の両脚がするするとからんできた。 「こ、これは!?」  転び締め——  なんと、梟は、下から大竹に、御式内を仕掛けてきたのである。 「むううっ」  大竹は、強引に立ちあがった。  自分の右腕ごと梟を持ちあげ、後頭部から地面に落とす。  しばらく前、大竹が、四郎にやろうとしたあの技だ。  しかし、驚いた分、わずかにその仕掛けが遅れた。  持ちあげきる前に、大竹の意識が消え、大竹は膝から崩れていた。 (二) 「なんだって、大竹森吉がやられたって!?」  杯を口へ運ぶ手を止めて、思わず声を大きくしたのは横山であった。  浅草の浅草寺に近い小料理屋�鶏太�の二階である。  そこで、横山は、照島太郎と鶏鍋をつついている。  今度飲もうという約束が実現して、ふたりで鶏鍋を肴に飲んでいるところであった。  連絡があったのは、三日前であった。  三日後に東京に出るから会わんか——  そういう知らせが、照島から横山のもとに入ったのである。  よし、飲もう——  それで、横山が場所をこの�鶏太�に指定して、ふたりは会ったのである。 「傷はもう癒えたか」 「まだ、ちくと痛む」 「よいきみじゃ」 「そっちはどうじゃ」 「痛くない」 「嘘をつけ」  そういう、たわいのない話で飲み始めた。  銚子が一本空く前に、 「円太郎が、歩けるようになった」  照島が言った。 「ほう、それはよかった」  横山が答えた。 「いずれ、稽古もできるようになるだろうと保科に伝えといてくれ。ついでに、円太郎がまた、顔を見たがっているとな」 「わかった。伝えておこう」  そういう話をして、二本目が空になって、三本目になった時、 「ところで、梟というのを知っておるか?」  照島が、横山に訊ねてきたのである。 「ふくろう?」 「人じゃ。何でも、講道館に野試合を仕掛けていたらしい——」 「あの男か——」  横山は、しばらく前に闘った、黒い影のことを思い出していた。  黒い影は、自分のことを梟と名のっていたのを思い出した。 「横山、おぬし、梟とやり合うたそうじゃな」 「ああ、やった」 「手強い男か」 「うむ」  横山はうなずき、 「しかし、何故、おまえがあの男の名を知っちょるんじゃ」  照島に訊ねた。 「実はな、その男、千葉にも来た」 「何じゃと?」 「うちの、大竹師範が闘って、破れた」  そこで、横山が、大きな声をあげたのである。 「しかし、大竹森吉と言えば、たいへんな猛者《もさ》ではないか——」 「そうじゃ。しかもな、やられたのは転び締めじゃ——」 「御式内!?」  横山が、止めていた手を動かして、杯の酒を、ひと思いに干した。 「うむ」  うなずいて、照島は、空になった横山の杯に酒を注いだ。  照島が、状況を語った。  大竹を倒し、起きあがった梟に、そこにいた定中が、 「次は、おれが相手をしよう」  そう言った。  すると、梟は、 「ふたり、ここで倒れたら、誰がこやつを家まで連れ帰るのじゃ」  そう言って、走り去っていってしまったというのである。 「むうう……」  話を聴き終えて、横山は唸った。  すでに、銚子は、五本目になっている。 「妙な当て身を使う男であったそうじゃ」 「琉球の手《ティー》じゃ」  横山は言った。 「手《ティー》!?」 「唐手《トウディー》じゃ。琉球拳法じゃと、嘉納先生は言うておられた……」 「唐手《トウディー》か……」  照島はつぶやき、 「しかし、唐手《トウディー》の使い手が、何で御式内という名を口にするんだ」  照島が訊いた。 「それが、わからん」  横山は、手酌で酒を杯に注ぎ、それを口に放り込むようにして飲んだ。 「しかし、わかったこともあるぞ、横山」 「何だ」 「講道館と戸塚道場——両方に、共通の敵ができたということじゃ」 「なるほど」  横山はうなずき、 「その敵——つまり梟だが、どうも、御式内を使う者に恨みを抱いちょるようじゃ」  音をたてて、膳の上に、空になった杯を置いた。  横山は、梟と闘った晩のことを語り、さらに、四郎とした会話について、照島に語った。 「では、保科には関係がないということか」  照島が腕を組む。 「うむ」 「御式内を使う者が、保科四郎、保科近悳、そして武田惣角、この三名。このうち、保科に覚えがないとするなら、近悳翁か、武田惣角かが、琉球拳法に恨みを買うようなことをしたということか——」 「それについてはな、四郎が今、調べている」 「保科が?」 「保科近悳に、今、会いに行っているところじゃ」 「ほう」 「三日前に出かけた。いずれ、何かの知らせが入るだろう」 「何かわかったら、教えてくれ」 「それはかまわぬが、照島、ひとつ覚えといてくれ」 「何じゃ」 「おれが先じゃ」 「先?」 「梟とやるのがだ」 「そりゃあ、約束できないね。こっちは、大竹先生がやられてるんだ。機会があって、それを逃《の》がしたとあっちゃあ、名札をはずさなきゃならねえ」 「そりゃまあ、そうだ」 「先に出会った方がやる——それでどうだい」 「それで手を打っとこう。どんな約束してたって、どうせ会った方が先にやることになっちまうんだろうからな」  大竹森吉が、野試合で梟とやって敗けた——これは、いずれ、多くの柔術家の知るところとなろう。  講道館で、門下生が何人かやられたというのとは、噂の重みが違う。 「で、どうなんだい。梟は、最近出るのかい?」  照島が訊ねてきた。 「あれ以来、さっぱりだな。大竹さんがやられたというのを耳にして、あの後があったんだってことを、今知ったばかりだ」 「てことは、この三日間何もなかったってえわけだ」 「このままにされたくないがね」 「大竹先生がひねったのが、案外に効いているのかもしれねえ」 「ひねった?」 「梟が蹴ってきた足を掴んで、投げながらねじったんだよ。その時、頭を蹴られたんだが、蹴られる寸前、足首から音が出るほど、ひねってやったと聴いている」 「大竹森吉だからできたんだろうよ」 「しかし、梟というやつ、妙だな」 「何がだ」 「誰に、どういう恨みがあるにしろ、仮にもうちの大竹森吉を倒したんだ。どこかで吹聴すれば、名をあげることができるというのに、そういう噂が、とんと耳に入ってこない」 「そうだな」 「いずれにしろ、おれのところへ、まず現われて欲しいね」  照島は、そう言って右手に酒の入った杯を持ったまま、左手を伸ばし、横手の障子戸を開けた。  雨だった。  雨に濡れた瓦屋根が、重なりながら向こうへと続き、その途中に、浅草寺の山門と五重塔が見えている。 「なかなか止まぬな……」  外へ眼をやった横山がつぶやいた。  照島は、雨に濡れた帝都の屋根の連なりを無言で眺めている。  七月六日——  梅雨が明けるにはまだ間があった。 「琉球拳法、どんなものか、一度、味わってみたいものじゃ……」  照島が、小さくつぶやいて、右手に持った杯の酒を乾した。 (三)  嘉納治五郎は、氷川町にある勝安芳《かつあんぽう》——海舟の屋敷で、主《あるじ》の勝と会っていた。  勝の右手——治五郎にとっては左側の障子が開け放たれていて、雨に濡れた庭が見えている。  庭には、大小の岩で囲まれた池があり、雨が池の面《おもて》に、無数の輪を絶え間なく作っている。  勝が、明治五年(一八七二)に、柴田七九郎という旧旗本の持ちものであったこの土地二千五百坪を、屋敷ごと五百円で買いとったものだ。その後、さらに五百円を投じて、庭をいじり、屋敷を修理し、調度品を整えた。  これが、明治三十二年(一八九九)に没するまで勝の終《つい》の棲み家《か》となった。  十一年前——明治八年に元老院議員の職を辞してからの勝は、これといった職にはついていない。やっていたのは、徳川一門や旧幕臣からなる、言うなれば明治徳川共同体の世話役のような、職とは言えない仕事である。  勝海舟という�顔�があるからこその仕事であり、この顔を使って、勝は�徳川銀行�とでも言うべき金融機関も立ちあげている。  金に困っている旧幕臣へ、低利で金を貸しつけて援助するための機関であり、勝の目利きで、貸しつける相手、金額、利子額を決めた。  明治十三年には、東照宮の保存を目的とした「保晃会」を設立したのも、勝であった。  明治政府の要人たちからは煙たがられてはいるが、勝が会いに出かけていって、会えぬ人物はいないといっていい。 「そうか、学習院の教頭になったかい——」  感慨深げに、勝は言った。 「勝先生のおかげです」  治五郎が言うと、 「よせやい。俺《おい》らは何もしちゃあいねえよ。おまえさんの力を、周囲の者がまっとうに評価しただけのこった」  勝が、眼を細めて言った。  先月——つまり、警視庁武術試合のあった明治十九年の六月に、治五郎は学習院の教頭となったのである。  その報告をかねて、この日、治五郎は勝を訪ねたのである。  この時期、治五郎はきわめて多忙であった。  四年前、明治十五年に創設した講道館の館長であることは言うまでもなく、同じ時期に始めた嘉納塾も運営していた。以前にも記したが、それを繰り返しておくと、このふたつについては、治五郎の私費で運営されていた。  治五郎が翻訳の仕事で得た金を、このふたつのものの運営費用にあてていたのである。  文武、ふたつの私塾の運営と翻訳の仕事——これだけでも充分に多忙だが、さらに治五郎は、明治十七年から三年間、駒場農学校(後の東京大学農学部)において理財学の教授をしていた。  もうひとつ、明治十五年に治五郎が興したのが、弘文館という文学の学校である。  そして治五郎は、これらと並行して学習院において教育家としての職務をこなしていたのである。  治五郎が、学習院で働くようになった時、院長を務めていたのは、初代の立花種恭《たちばなたねゆき》であった。三池藩第八代藩主であった人物で、子爵であった。  二代目が、明治十七年から十八年まで院長を務めた谷干城《たにたてき》である。もと、土佐藩士であり、明治一〇年の西南戦争では、熊本城に入って、五十二日間にわたり、西郷軍の攻撃から城を守った人物であった。  この谷に、治五郎は可愛がられた。  明治十八年に、谷は、治五郎を幹事に抜擢した。しかし、この同じ年に伊藤博文が新内閣を組織したおり、谷は農商務大臣に任ぜられて、学習院を去った。代って三代目院長となったのが、元老院議官大鳥圭介であった。  明治十九年六月、この大鳥院長の時に、治五郎は学習院教頭の職についたのである。  まだ、治五郎が二十七歳の時であった。  治五郎が、学習院においてこの時期果たした大きな役割のひとつは、�平等�という意識を院全体に持ち込んだことであった。  そもそも、学習院というのは、旧宮内省が設置した官立学校である。  生徒の多くが、華族であり、旧藩主の子やその血族の者たちであった。  それに加えて、教師は、その華族や藩主に仕えていた元藩士である。ここに、教師の方が、生徒に遠慮をして、卑屈な態度をとってしまうということが日常的にあったのである。  たとえば、教務の書記をやっていた某は、ある生徒の家の馬丁をやっていたことがある。このため、生徒がこの某を馬鹿にして言うことをきかないということなどがあった。  教師が生徒の家に年賀にゆき、生徒が後から答礼するということも普通にあった。教師が車や馬車で院までやってきても、門のところでこれから降りるのに対し、生徒の方は、門をくぐり玄関まで車で乗りつけ、生徒の荷を院の小使いが捧げ持って教室までゆくということが、日常的に行なわれていたのである。  この悪しき宿弊を改めるように努力したのが治五郎であった。  治五郎は、もともと天領の民であり、どこの藩士でもなかったことが幸いし、どの生徒に対しても遠慮をしなかった。  この治五郎の姿勢に協力を惜しまなかったのが、二代谷干城である。 �嘉納若年なれども有望の人物なり�  谷は、自分の日記にこのように書いている。  だからこそ、谷は�若年�の治五郎を幹事に任命し、去る時も治五郎が教頭職につけるよう、強く推薦していったのである。  その背後に、勝の口添えがあったのは、言うまでもない。 「おまえさんのような人間に、どんどん出てきてもらわねえことにゃ、この日本国の先行きが心配《しんぺえ》なのさ」  勝は言った。 「そのためには、おまえさんが、学習院《あそこ》で自由に動けるようにしておかなきゃあならねえ——」 「ありがとうございます。これで、前々から考えていたことも実行できます」  治五郎は言った。 「そりゃあ、何だい」 「留学のことです」 「ほう」 「生徒の中で、優秀な者を海外に出して学ばせようと思っているのですが、今のままではこれがうまく機能いたしません」  学習院では、華族、士族、平民の出の生徒がいるのだが、何かにつけて、華族や士族の出の生徒が優遇され、平民の出の生徒は、どれだけ優秀であっても、正当にあつかわれない。 「これを改めたいのです」  成績優秀、前途有望であれば、 「たとえ平民の出の者であっても、留学できるようにしたいと考えているのです」  治五郎は、きっぱりと言った。 「そりゃあ、いい。人材に、華族も士族もねえ。できるやつがそれをやる。あたりめえのことだ。しかし、そのあたりめえのことを、この御時世になってもまだわからねえ奴がいる。苦労は多いだろうが、やり甲斐のある仕事だ」  勝は、好もしそうに、眼の前の若者を見やった。 「ところで、講道館の方は、どうだえ?」  勝が訊ねてきた。 「おかげで、入門者が増え、道場が狭いほどです」 「もう、月謝を取らにゃやってゆけぬだろう——」 「今は、取るようにしています」 「それがいい。多少は、金のことも考えにゃあ、でけえ仕事はできねえよ」 「はい」 「そっちの方のことなんだが、おもしろい話がおいらのところに届いてるぜ」 「どのような?」 「この前の、武術試合で、おまえさんとこの宗像に勝った良移心頭流の中村半助のことだ——」 「それが、何か?」 「どうも、佐村とやることになったらしい」 「竹内三統流の佐村正明師範のことですか」 「そうだ」 「———」 「あのふたり、以前に闘って、佐村が勝ったらしいな」 「噂には聴いております」 「そのおり、再戦の約束をしたらしい」 「再戦の?」 「佐村の方から、三島の所へやってきて、試合を組んでくれと申し入れたそうじゃ」 「決まったのですか」 「まだじゃ。実現させたいと三島は言うておった」 「そうですか」 「横山と、それから、保科四郎、あのふたりの闘いぶりが、三島は気に入ったようじゃ」 「———」 「ふたりはどうしている?」  勝は訊いた。 「横山は、東京におりますが、保科は出かけております」 「出かけた? どこへじゃ」 「日光です」 「日光?」  勝は、少し頭《つむり》をひねったあとで、 「保科近悳のところか?」  そう問うてきた。 「御存知でしたか」 「近悳を、日光に送ったのは、この勝の差し金《がね》だよ。あの人物なら、東照宮をきちんと守ってくれると思うてな」 「そうでしたか」 「保科四郎は、近悳の養子だそうだな」 「はい」 「保科の試合中、御式内との声が飛んでいたが、保科は、あれを、近悳から学んだのであろう」 「そのようです」  治五郎が答えると、 「おう、さっきの話だが、もうひとつ三島はおもしろいことを言うていたなあ」 「何でしょう」 「中村と佐村——勝った方を、来年の弥生祭の武術試合で、講道館とやらせてみたいとな——」 「講道館と?」  治五郎が、思わず真剣な表情になると、 「おっと、これは、少ししゃべりすぎたか」  勝は、そう言って笑い声をあげた。 「決まったわけではない。話の中で、三島がそういうことも言っていたと言うことじゃ」  勝は、治五郎の反応を楽しんでいるかのように、また、声をあげて笑った。 (四)  四郎は、東照宮の、社務所の一室で、近悳と向きあって座していた。  八畳間の、簡素な部屋であった。  床の間を背にして、近悳は、直接畳の上に座している。  対する四郎も同様に、正座をしていた。  座布団などは使用していない。  障子窓が開いていて、外では、沛然《はいぜん》として雨が降り、新緑を濡らしているのが見える。  東京より北で、標高もあるため、樹々の葉は、まだ、柔らかな緑色をしている。 「身体の方はどうじゃ……」  近悳が、四郎に言った。 「もう、だいぶよくなりました」  四郎は答えた。  試合では、好地の頭突きで、鼻の軟骨を曲げられている。肋《あばら》を折られ、右足首の関節の靭帯も破壊された。  完治とは言えないまでも、かなり身体は回復していた。  東京から日光まで歩いて、どこが痛むというようなことは、もう、ない。  試合の結果については、すでに、四郎からの手紙によって、近悳は知らされている。 「御式内が、役に立ったようだな……」 「はい」  四郎はうなずいた。 「役に立ったのなら、わたしも嬉しい……」 「驚きました」 「驚いた?」 「使ってみたら、考えていた以上に実戦向きでした」  これが、四郎の、御式内に対する実感であった。  自分に向かってくる相手、仕掛けてくる相手に対する受けや攻めの型は、各流派ともに色々あるが、座している相手に対してどう闘うか——この型をきちんと有している流派は多くない。  あっても、身を入れて学んでいない。 「であろう」  うなずいた近悳は、あらたまった表情で四郎を見、 「さて、ではそろそろ、今日、訪ねてきたわけを聴かせてもらおうか」  そう言った。  警視庁武術試合の報告なら、すでに手紙で受けている。  近くに住んでいるのならともかく、わざわざ東京からここまで四郎がやってきたというのは、何か別の用件があってのことであろうと、近悳はそう言っているのである。  四郎も、それを近悳がわかっていることを充分に承知している。  ひと通りの挨拶が済んだので、近悳がわざわざ自分から、四郎がそれを言い出すきっかけを作ってくれたのである。 「実は、今の話にも出ていた御式内のことなのですが……」  四郎は、そう言って、講道館に野試合を仕掛けてきている人間がいることを、近悳に語った。  四郎が話をしている間、近悳は腕を組み、眼を閉じて、凝《じ》っとその話に耳を傾けていた。  四郎の話が終ると、近悳は閉じていた眼を開き、 「覚えはない……」  静かにそう言った。 「これまで、琉球拳法とは闘ったこともないし、その使い手と会うたこともない……」  近悳は、組んでいた腕を解《ほど》き、 「おそらく、惣角であろう」  そうつぶやいた。 「武田惣角……」  これまで、何度も近悳の口から聴かされたことのあるその名を、四郎は小さく口にした。 「そうじゃ。四年前、惣角がここを訪ねてきたことは、すでに話したはずじゃ」 「はい」 「東京の講道館、千葉の戸塚道場へ寄って、惣角はここへ来た。その前に、惣角は、九州にいたらしい。九州にいたその頃に、惣角は、しばらく琉球に行っていたことがあると言うていた」 「琉球に!?」 「何をしていたかは口にしなかったが、行ったとするなら、むろん、惣角のことじゃ、物見遊山《ものみゆさん》に行っていたわけではあるまい——」 「武術修行……」 「たぶんな。その時に、琉球で、今度《こたび》のことにつながる何かがあったのかもしれぬな」 「何があったのでしょう」 「さて、そこまではわからぬ。そこまではなあ——」 「今、惣角さんはどこに?」 「会津じゃ」  近悳は言った。 「会津?」  会津と言えば、近悳にとっても、四郎にとっても生まれ故郷である。  講道館で、偶然に出会った八重も会津の出であり、会津戦争で志田家が疎開した津川に、八重の一家も疎開してきていた。  津川は、現在新潟県に所属しているが、明治十九年までは福島県に入っていた。しかし古くは会津藩領の一部であり、一部であったからこそ、会津の者たちが、戦争で会津を追われたおり、その疎開先となったのである。 「そこでな。自流を興した」  近悳は、その言葉を畳の上に落とした。 「武田さんが?」 「ヤマト流という」 「小野派一刀流か、直心影流、あるいは大東流ではないのですか?」  惣角は、渋谷東馬から小野派一刀流を、榊原鍵吉から直心影流を学んでおり、どちらも免許皆伝の実力を持っている。  道場を出すならそのどちらかであろうし、大東流の看板を上げてもいいのではないか。 「それがな、このヤマト流、漢字で書けば大東《ヤマト》流ということらしい」 「ならば、大東《だいとう》流でよいのではありませんか——」 「大東流は、もともと柔術のみではない。剣術あり、馬術あり、槍術もあり、そのうちのひとつに柔術があって、その柔術の中に御式内もある」 「はい」  それは、四郎にもよくわかっている。  大東流は、そもそも戦場における技術である。もともとのことで言えば、素手のみ、あるいは刀を持ってのみの戦いにしか技術がないということはあり得ない。 「惣角が教えているのは、どうも、この素手の術を主にしたもののようだな」 「御式内?」 「どうも、それだけではないな。琉球で、何か得ることがあったのであろう」 「琉球で?」 「想像するに、素手、無手というものに、これまでとはまた違った想いを抱いているようじゃ……」 「無手、ですか」 「嘉納さんの考えておるところに、その意味では、存外に近いかもしれぬ」 「———」 「惣角め、あるいは、このわしに気を使うておるのやもしれぬなあ……」  近悳は、何か想うところがあるように、いったんその眼を閉じた。 「あれの父親の惣吉とはな、会津戦争のおり、共に会津から逃げた仲であった……」  武田惣角の父、武田惣吉は会津藩士であった。  六尺に余る体躯を持ち、地元の相撲では大関を張る力士である。京都鳥羽伏見の戦いにも出ており、近悳より十一歳上であった。 「わしが身につけたこの大東流、そもそもはこの惣吉が継ぐはずであったものじゃ」  何かの覚悟を決めたように、近悳は眼を開いてそう言った。  思わぬ言葉であった。  四郎は、今近悳が口にしたことについて、その意味を問おうとしたのだが、それをやめた。近悳が、そのまま語り出したからである。 「この大東流、会津で代々これを継いできたのは武田の家じゃ。大東流を教えていたのは、武田惣右衛門先生であった……」  武田惣右衛門——惣吉の父であり、惣角にとっては、祖父にあたる人物であった。 「惣右衛門先生がな、大東流の秘伝、御式内は身体の大きな者にはむかぬとおっしゃられてな、その奥伝を、このわしに継がせたのじゃ」  丈、およそ六尺。  体重、およそ三〇貫。  つまり、身長一八二センチ、体重は一一二キロに余るその体躯が、御式内を学び伝承するには不向きであると惣右衛門が考えたというのである。  近悳の言う意味は、四郎にもわかった。  大東流のうち、御式内は、座している状態から始まる技の体系である。動く時は、膝行《しっこう》するのが原則である。  当時の男子の平均身長を考えると、座した惣吉と相手との身長差がほとんどない状態となる。御式内は、それを使う人間が小さければ小さいほどよい。 「いずれ、わしも、この大東流御式内を、誰かに伝えねばならぬ。はじめのうちは、いずれ、武田家にこれを返すべきであろうと考えていた。惣角に、継がせようかとな。あれは、稀に見る才と天分を持った漢《おとこ》じゃ。しかし、四郎よ、おまえと出会い、おまえの成長を見るにつけ、わしに欲が出た——」 「欲?」 「四郎よ、ぬしに、大東流御式内を継いでもらいたいと、わしは考えるようになったのじゃ。おまえもまた、才と天分を持って生まれた漢じゃ」 「———」 「しかし、明治の世になり、時節《じせつ》が動くうちに、またわしは違う考えを持つようになった……」 「違う考え?」 「以前にも言うたが、この御式内、これを継いでくれるのは、誰《たれ》か特定のひとりでなくともよいのではないかということじゃ。たとえば、それが、講道館であってもな……」 「———」 「しかし、それはそれ。それとはまた別に、この大東流を、しっかり継いでくれる者があれば、それはそれで、わしは嬉しいのじゃ。わしは、惣角と、それから四郎よ、おまえのふたりに、この大東流の全てを教えたいと思うている。大東流の真髄は、以前にも言うたが、合気じゃ——」 「うかがいました」 「この合気、誰にでもできるというものではない。しかし、ぬしらふたりにはその天分がある。基本は、あの、こより投げじゃ」 「はい」 「わしが、おまえを養子にしたというので、ことによっては、大東流をおまえに譲ろうとこのわしが決心をしたのだと、そういう風に惣角は受け取っておるやもしれぬ」 「先ほど、気を使っているのかもしれないとおっしゃられたのは、そういうことだったのですか——」 「うむ」  近悳はうなずき、 「惣角は、ふたつの戦を見てきた……」  そう言った。 「ふたつの?」 「会津戦争と、西南戦争じゃ」  このふたつの凄惨な戦に、惣角は参加こそしなかったものの、それを間近に見ている。  会津の時は、惣角は数えで九歳の時に、これを体験している。四郎が、同じく数えで三歳のおりのことだ。  官軍との戦であり、父惣吉と兄惣勝は戦いのため城に詰めている。家に残されたのは、次男の惣角とその妹のふたりである。この時、毎夜、にぎり飯を作り、三里の夜道を歩いて、城まで大砲の弾が飛び交うのを見に出かけたというのである。  焼けて熱っせられた砲弾——赤い火の玉が飛ぶのを見るのが、惣角は好きであった。  出かけてゆくと、官軍の警備の者に見つかって詰問される。 「武田惣角じゃ」  子供であったが、詰問されれば、惣角は昂然と胸を張って答えた。 「何しに来た」 「戦見物じゃ」 「戦など、見物するものではない。帰れ」  帰るふりをして、惣角は、また見にゆく。  再び警備の者に見つかる。 「またおまえか」  警備の者も忙しい。  相手は子供だ。  そのうちに、放っておかれるようになった。  このおりに、惣角は、人が剣を持って戦い、その剣で斬られ、あるいは突かれて死ぬのをその眼で見ている。  どちらが敵、どちらが味方ということよりも、惣角は、人が生命を賭して戦う姿に血をざわめかせた。  勝った方が生き、負けた方が死ぬ——  戦いにおけるこの単純きわまりない事実を、惣角はそこで知ったのである。 �どちらが敵、どちらが味方、どちらが正義でどちらが正義でないか�  その時、戦を支配しているのは、そういうものではない。  どちらが強くて、どちらが弱いか——  戦いにあるのはそれだけであり、その結果が、生と死を分けるのである。  会津戦争における惣角の逸話はまだある。  戦える者は城に入り、戦えぬ大人は山へ逃げてしまっている。  子供だからまさか官軍も手を出したりはすまいということで、惣角は妹とただふたり、家に残っていた。  そこへ、食料の調達にやってきた官軍が、惣角が飼っていたアヒルの首をひねって持ち去ろうとしたというのである。 「官軍は盗《ぬす》っ人《と》じゃ、官軍盗っ人!!」  惣角が大声で叫んだ。  そこへ隊長がやってきて言った。 「小僧、我らはな、天皇の兵じゃ。泥棒よばわりはないであろう」 「ならば、天皇が泥棒じゃ」  惣角はそう言い放った。 「ならば、金を置いてゆく。これで泥棒ではあるまい」  隊長は、惣角に二分金を与えて帰っていったというのである。  これを、近くの大人が聴きつけて、夜、この金を取りに来た。  夜——ちょうど、妹と飯を食べていた時であった。 「おい、官軍からもらった金があるだろう。それを出せ」  顔を隠すため、面を被った男が入ってきて脅した。  この男に、惣角は、持っていた茶碗をいきなり投げつけた。茶碗は、面に当って、面が割れた。 「あっ」  と言って男は顔を覆った。  その時、顔が見えた。  近所の男だった。  男が、顔を見られまいとして、両手で顔を隠したその時、立ちあがった惣角が、つうっと前に出てゆき、 「てえいしゃっ!」  男を投げ飛ばした。  近くにあった柱に、男は頭をぶつけた。もちろん、惣角が、当るように投げたのである。  首が曲がり、男は倒れてそのまま動かなくなってしまった。  茶碗を投げた時に、すでに惣角は、この男を投げとばし、柱に脳天をぶつけるという一連の動きを、頭の中に思い描いていたというのである。  これらのこと——官軍をたしなめた胆力といい、男を撃退した技といい、一朝一夕に身につくものではない。それを、九歳の時にやってのけたというのは、その天分が惣角にはあったということなのであろう。 「四郎よ、どうする?」  近悳が、四郎に問うた。 「会津までゆくか?」  いったい、何故、琉球拳法の使い手が講道館に野試合を仕掛けてくるのか。  それを確認するには、惣角に会うしかない。 「はい」  四郎はうなずき、この義理の父に、深く頭を下げたのであった。 (五)  ぴゅう、  と、笛のような音がした。  ぴゅう、  刀が風を斬る音である。  その男は、片手で、無造作に刀を振っているだけだ。  右手に残った小脇差を、斬り下げ、横に払い、上に斬りあげる。  その時に、鋭い笛のような音が出るのである。  その音は、  ぴいいい、  と一瞬長く尾をひくこともあれば、  ぴゅっ、  と短く鳴るだけのこともある。  いずれも、男が小脇差を振る度に、その刃が空気を裂いて出る音だ。  刃渡り一尺二寸——。  虎徹《こてつ》である。  変幻自在、男の心のままに刃が疾《はし》り、笛の音が鳴る。  小男だった。  丈だけを見れば、子供のようであったが、その面構えは大人のものだ。  眼は鳥のように丸く、眼光は鋭い。  武田惣角であった。  場所は、寺の本堂である。  泉岳寺——  前には、金銅の如来が座している。  その前で、舞うように惣角が剣を振っている。  それを、一〇人くらいの大人が座して眺めているのである。  惣角が、虎徹を振る度に、 「おう」  とか、 「ほう」  という溜め息にも似た賛嘆の声が、座した大人たちの唇から洩れる。  惣角は、動きを止め、 「これほども振れれば、片手でも人の胴を落とすことくらいはできるでしょう」  経験したことがあるかのような口ぶりだった。 「わたしにも振らせてもらえますか」  立ちあがって出てきたのは、四〇歳を超えていると見える、壮健そうな男であった。 「戊辰のおりには、官軍と刃を交えたことがある」  男は、そう言って、惣角から脇差を受け取った。  脇差を渡した瞬間に、惣角はすうっと素早く後方に退がっている。  男は、右手に小脇差を握り、振った。  音はしない。 「しゃっ!」 「むんっ!」  力を込めて、何度か振ったが、やはり音はしない。  もと士族で、口にした通り実戦の経験もあるらしく、刀を振る姿は様になっているのだが、いくら振っても刃は音をたてなかった。 「何か、仕掛けでもあるのですかな」 「ありません」  惣角は、短く言った。 「そのような音を、昔はたてることができたのだが……」  男は、小脇差を持ったまま言った。  これが、大刀であれば、達人が両手に握って打ち下ろせば、あるいは刃が音をたてることもあるであろう。しかし、刃渡り一尺二寸の小脇差を片手で振って音をたてるというのは、誰でもできるということではない。  惣角は、無言で男から小脇差を受け取り、また、無造作に振った。  ぴゅう、  と、鋭く刃先が鳴った。  それは、一度だけであった。  一度だけ、惣角は小脇差を振り、虎徹を鞘に収めてしまった。 「では、これにてお引き取りを——」  惣角が言った。 「仕掛けがあるのかと訊ねたわたしの言葉が気に障ったのかね」 「そうではありません」 「では、何故?」 「来客のようなので——」  惣角が、男の肩越しに、本堂の外へ眼をやった。  男が振り返ると、本堂の前の石畳の上に、これも、丈の低い、ひとりの漢《おとこ》が立っているのが見えた。  一瞬、惣角と兄弟ではないかと思えるほど、見た目の体型が似ている男であった。 「わかった。機会を作って、ぜひきみの技を、また拝見させていただこう」  男が、他の者たちを見やり、 「今日は、これまでじゃ」  そう言うと、座していた男たちがそれぞれ立ちあがりはじめた。  ぞろぞろと、男たちが外へ出てゆき、やがて、本堂からうかがっても、その姿が見えなくなった。  石畳の上に、ぽつん、とさきほどの漢が立っている。  立って、惣角を見つめている。 「保科四郎くんか……」  惣角が言った。 「はい」  その漢が答えた。  明治十五年、講道館で遭遇して以来四年ぶりに、武田惣角と保科四郎は、ここに相まみえたのであった。 (六) 「よく、ここがわかったな……」  低い声でつぶやいたのは、武田惣角であった。 「近くで訊ねたら、武田先生ならこちらの寺で教えているとうかがいました」  答えたのは、保科四郎である。  ふたりが向き合って座しているのは、惣角がヤマト流を教えていた寺——泉岳寺の書院であった。 「こちらの住職が、わたしのヤマト流に興味を持たれてな、本堂で教えてもいいとおっしゃってくれたのだ」  ふたりの膝先には、それぞれ茶托《ちゃたく》に載った湯呑み茶碗が出されていて、和《やわ》らかな湯気をあげている。  しばらく前に、住職の大黒《だいこく》(妻)が、持ってきてくれたものだ。  窓の障子が開けられていて、その向こうに、裏山に続く竹藪が見えている。 「見ただけで、どうしてわたしが保科四郎とわかったのですか?」 「それは……」  一瞬沈黙して、 「近悳先生から、何度かきみの写真を見せられていたからな」  惣角は言った。 「そうですか……」  四郎は、まだ、ここへやってきた用件を、惣角に告げていない。それをどうやってきり出すか、考えがまとまらぬうちに、この書院へ案内されて、向き合ってしまったのである。  惣角は、向き合っているだけで、肌がひりひりしてくるような漢《おとこ》であった。  一緒にいるだけで、息が詰まるような相手であった。出合い、この書院で向き合うまで、一瞬たりとも息が抜けなかった。向き合っている今も、それだけで、全身の体毛が磁場を帯びてきそうであった。 「しかし、さすがだな」  惣角が言った。 「何のことですか」 「きみが、出された茶を飲まないことだ……」 「———」 「この部屋に入る時も、きみはわたしに背を向けなかった。半身になり、わたしから距離をとって、すうっと入って横へ動いている——」  たしかに、四郎はそのように動いている。  自然に出た動きだ。 「きみの方が、怖いな……」 「わたしの方?」 「嘉納さんよりもだ」 「どういうことですか?」 「嘉納さんは、怖くないということだ」 「———」  四郎は沈黙し、惣角を見つめている。 「あの人物には、素晴らしい才がある。もしかしたら、その才はこのわたしより上かもしれない。若い頃から、嘉納さんが、このわたしと同じ修行をしていたら——古今に類を見ぬ達人になっていたことだろう。しかし——」 「しかし?」 「所詮学者柔術だ。そこにつきる」 「嘉納先生は、強いです」  四郎は言った。  本心であった。  心からそう思っている。  道場の稽古で、これまで治五郎に勝ったことがない。あの横山もだ。もちろん、道場では、師である治五郎と試合をするわけではない。新しい技を工夫する最中に、互いに組んだり、投げあったりはする。それが時には、乱取りになる。  そういう時、いとも簡単に治五郎に投げられてしまう。  もっとも、この二、三年は、めっきりそういうことも少なくなってきているが、こと、立っている人間を崩し、投げるということでは治五郎の技は神域にあるといっていい。  惣角は、四郎の心の動きを眺めてでもいたように、 「それは、よくわかっている」  そう言った。 「しかし、自分が言っているのは、そういうことではない。嘉納さんには、致命的な欠点があるということだ」 「何ですか、それは——」 「あの男には、殺す覚悟がない」  きっぱりと惣角は言った。  惣角の眼が、四郎を見つめている。  四郎は、眼をそらさずに、惣角のその視線を受けた。 「わたしが何のことを言っているか、きみにはわかるはずだ」  四郎は、答えない。  言葉を発すれば、思わず惣角の言ったことを肯定してしまいそうだと思っているかのようであった。  思わぬ沈黙がそこに生まれてしまった。  重い時間が流れた。  すでに、湯呑みからは湯気があがっていない。 「いらぬことを言ってしまった……」  惣角が、沈黙を破ってつぶやいた。 「ところで、今日、ここへやってきた用事は何だね」  惣角が、話題を変えた。 「琉球拳法というのを、御存知ですか」  四郎が訊ねた。 「琉球拳法?」  惣角は、何事か一瞬考えるような体《てい》で首を傾けたが、すぐに、 「それは、首里手《しゅりて》のことではないのか」  そう言った。 「首里手?」  今度は、四郎が首を傾けた。 「唐手《トウディー》のことでしょうか」 「きみはそんな言葉まで知っているのか。そうか、嘉納さんだな。あの男なら、それくらいは知っていてもおかしくない——」 「首里手というのと唐手《トウディー》というのは、違うのですか」 「違う。同じようだが違う」 「違う?」 「講道館流と揚心流が違うのと同じ意味で違う。同じようだがという意味でなら講道館流も揚心流も同じ柔術だ。柔術という意味では同じだが、その流儀は違う——」 「———」 「唐手《トウディー》も首里手も、どちらも手《ティー》であるということでは同じだが、流儀としては別だ」 「手《ティー》?」 「こっちで言う、武術という意味に近い、琉球の言葉だ」 「———」 「手《ティー》というのは、もともと琉球にあった武術だ。棒などの武具も使うし、素手の場合はこちらでいう当て身を主体にした闘い方をする。一対一で闘う場合は別だが、相手の人数が多い時には、この手《ティー》で闘う方が、ずっと有利だ。ひとりに当てたあと、すぐに次の攻撃に入ることができる」 「そうですか——」  四郎にとっては、うなずくしかない。  自分は、まだ、その手《ティー》を見たことがないのだ。 「首里手というのは、言うなれば手《ティー》の流儀の名だ。琉球の首里という土地で使われている手《ティー》が、首里手だ」 「すると、手《ティー》にも色々な流儀があるのですか?」 「ああ。琉球では、色々な土地に、その土地の手《ティー》がある。那覇《なは》でやられてるのが、|那 覇 手《ナーファーディー》、泊《とまり》でやられているのが泊手《トマイディー》じゃ」 「では、唐手《トウディー》というのは……」 「大陸から琉球に渡ってきた手《ティー》のことじゃ。皆、それぞれに違う」 「何故、惣角先生は、琉球の武術のことを御存知なのですか」 「五年ほど前に、一年半くらい琉球に行っていたことがある」 「その琉球で、何かありましたか——」 「何かだと?」  言ってから、気がついたように、 「何故、そのようなことを訊くのだ。用件というのはそれか——」  惣角は四郎を見た。 「はい」 「どういうことじゃ」 「実は、ここしばらく、講道館に野試合をしかけてくる者がいるのです」 「野試合だと!?」 「その人物が、どうも琉球拳法を——いえ、その手《ティー》を使うらしいのです」  四郎は、講道館が今直面していることについて、短く惣角に語った。  話を聴き終えた惣角は、 「しかし、そのことと、この惣角にどのような関係があるというのじゃ」 「野試合をしかけてくる相手は、自らのことを梟《ふくろう》と名のっています」 「梟?」 「その梟が御式内の名を口にしました」 「御式内の名を!?」 「警視庁武術試合のことは、お耳に入っておりますでしょうか」 「噂は聴いた。四郎くんも出場して勝ったそうだな」 「そのおりに、近悳先生の許可をいただいて御式内を使いました」 「転び締めだな」 「はい」 「それがどうしたのじゃ」 「それで、梟は、講道館が御式内を使うと考えたようなのです——」 「それで、講道館に、野試合を、かけてきたと?」 「ええ」 「何故じゃ」 「梟と闘った者に、梟が言ったそうです」 「何と?」 「御式内は我が敵《かたき》じゃと——」 「敵だと?」 「はい」 「———」 「これは、手《ティー》を使う者に対して、御式内を使う者が、何か恨みを買うようなことをしたのではないかと考えたのです」 「———」 「わたしに覚えはありません。近悳先生にも覚えがないそうです。残ったのが……」 「おれか[#「おれか」に傍点]……」 「はい」  四郎は、小さく頭を下げた。 「御式内のことで、講道館に迷惑がかかっているとあっては、放っておけません。それで、惣角先生に御相談しようとうかがいました」 「ようするに、おれに、覚えがあるかどうかということだな」  惣角が、これまで自分のことをわたしと呼んでいたのが、いつの間にかおれになっている。 「ええ」 「覚えなら、ある」  惣角は言った。 「どのような?」 「六年ほど前じゃ。熊本でな、手《ティー》を使う者と闘ったことがある。金城朝典《かなぐすくちょうてん》という男じゃ——」  旅の軽業一座の小屋で、惣角は金城の試割りを見た。  素手で、瓦や石を叩き割る。  その金城が、見物人の中から出てきた相撲取りを、やはり素手で叩きのめすのを目のあたりにした。 �勝った者に二円を払う�  という座長の言葉に、惣角は志願して、金城と闘った。  金が目当てというわけではなかった。  金城が会得していると思われる武術に興味を覚えたのである。  その試合に、惣角は勝った。  そのことを、惣角は四郎に語った。 「それでな、おれは、金城と一緒に、琉球へゆくことにしたのだ」 「行ったのですか」 「手《ティー》を学ぶためにな」 「では、あちらで、手《ティー》を修行したのですか」  惣角は、短い顎を引いてうなずいた。 「なかなか、得難い体験をさせてもらった。そもそも、稽古が、我々の知るものと違う」 「どう違うのです」 「まず、己れの身体のあらゆる部位を、武器と化すために鍛錬をする」  惣角は、右手を前に出した。  ころりとした、厚みのある掌《て》であった。  指も、太く、丸い。 「その鍛錬は、今も続けている」 「どのような、鍛錬なのですか」 「指先で、瓶《かめ》の口を持って立つ。砂袋を拳で打つ。足で蹴る。指先だけで、砂を叩く……」  惣角は息を止め、 「それは、凄まじいものであったよ……」  そう言いながら、ゆっくりと吐いた。  惣角は、彼の地での日々を思い出したかのように、遠い眼つきをした。 「明治十三年に沖縄に渡り、一年半ほどいて、もどってきた」 「その間は、ずっと?」 「手《ティー》の修行じゃ」 「誰か、先生にはつかれたのですか」 「新垣世璋《あらかきせいしょう》という、那覇手《ナーファーディ》をやられる方じゃ——」 「その新垣先生とは、どのようにして——」 「新垣先生は、金城朝典の師にあたる方でな。朝典が会わせてくれたのだ」 「梟というのは?」 「島袋安徳《しまぶくろあんとく》——おそらくな」 「どういう人物なのです?」 「新垣先生の弟子じゃ」 「いったい、どのようなことが琉球であったのですか——」 「話しておこう」  うなずき、そして、惣角は琉球でのことを語りはじめたのであった。 [#地付き](第三巻了   第四巻につづく) [#改ページ]  題字 岡本光平  装幀 高柳雅人 本書は「小説推理」'05年11月号〜'08年8月号にかけて不定期掲載された同名作品(全20回)に加筆、訂正を加えたものです。 なお、作中には実在の人物、団体が登場します。 執筆にあたり、各種資料を参考にしておりますが、その解釈は著者独自によるもので、作品はフィクションです。 夢枕 獏●ゆめまくら ばく 1951年神奈川県生まれ。77年、SF文芸誌『奇想天外』にて「カエルの死」でデビュー。89年『上弦の月を喰べる獅子』で第10回日本SF大賞、98年『神々の山嶺』で第11回柴田錬三郎賞を受賞。『餓狼伝』『魔獣狩り』『キマイラ』『陰陽師』シリーズなどで人気を博す。他に『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』『シナン』などの歴史長編や、趣味である格闘技、釣り、写真に関連した著作も数多い。近著に『毎日釣り日和』。 [#改ページ] 底本 双葉社 単行本  東天の獅子 第三巻 天の巻・嘉納流柔術  著 者——夢枕 獏  2008年11月23日  第1刷発行  発行者——赤坂了生  発行所——株式会社 双葉社 [#地付き]2008年12月1日作成 hj [#改ページ] 底本のまま ・義韶《よしかず》 ・義韶《よしつぐ》 ・誰《たれ》か? ・那覇手《ナーファーディー》 ・那覇手《ナーファーディ》 修正  御式内の転び締め�だ。→ 御式内の�転び締め�だ。